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2009年5月

2009年5月31日 (日)

伊豆旅行 韮山反射炉・江川邸を経て沼津へ

210513_20 伊豆洋蘭パークを出て、車で20分走り韮山の反射炉を見に行く。反射炉って何かなあと思いながら走る。入口に着くとドライバーさんが「少し待ってください。ボランティアガイドさんを頼んできますから」といってしばらく車の中で待つことに。やがてボランティアガイドさんが来て入場料100円を払って入園する。説明によると、反射炉とは、銑鉄を溶かして優良な鉄を生産するための炉で、銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要であるが、反射炉の場合、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっていて、そこに熱を反射させ、銑鉄に集中させることでその高温を実現する構造となっているそうだ。そこから、反射炉という名前がつけられた。
210513_21 溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工された。近年の発掘調査では砲弾の鋳型などが発見されている。炉と煙突の部分を合わせた高さは約16m、当時の物が残る日本で唯一のものである。当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いていた、と説明があった。反射炉建設に至った経緯について、嘉永6年(1853)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされ、江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を許可する。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみを頼りに大規模な反射炉を建造することは非常に困難が伴ったそうだ。当初、建設予定地は下田港に近い加茂郡本郷村とされ、その年の12月には基礎工事が始められた。しかし、翌、安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという事件がおる。そこで、急遽、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村に移転することになったそうだ。
 しかし安政2年(11855)正月、江川英龍(坦庵)は反射炉の竣工を見ることなく病死してしまう。後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請した結果、安政4年(1857)、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成した。完成した反射炉では、元治元年(1864)に使用が中止されるまでに、数多くの鉄製砲が鋳造された。これらの大砲は品川台場に28門配備されたそうだ。

210513_23  見学を終えて土産物店に案内される。ここには反射炉地ビールがあるというので飲んでみるととても美味しかった。近くには茶摘み体験のできる製茶工場などもあり、大勢の人が来ていた。
210513_25 反射炉を見学した後、江川家の邸宅を見学する。小学生なども見学に訪れていた。江川家は重要文化財に指定されている。主屋(552㎡)は高さ12mで大屋根を支える豪壮な架構で有名で、土間からその構造を見ることができた。枡形、役所跡、生き柱、西蔵、南米倉・北米倉、などを見学する。表にはパン祖の碑等もあった。

210513_24 土産物屋でパン祖のパンを購入する。今日でいう乾パンのような保存性の高いパンだった。(家ではスープに入れて食べた。)見学を終えて沼津に向かう。

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2009年5月30日 (土)

伊豆旅行 洋蘭パーク・かつらぎ山

210513_12 前日のホテル出発は10時と少し遅かったので、今回は少し早めの9時にチェックアウトする。10分ぐらい走って、伊豆洋蘭パークについた。パークは、静岡県伊豆の国市田京にある植物園で、500種もの洋ランを見ることが出来る。入り口の駐車場には鈴木丘のモニュメントがあった。また、このパークは3つのゾーンに別れていて、大温室を中心とした花と緑のミュージアム[TROPICARlUM]。トロピカリウムという名は「熱帯性」の“tropicus”に「展示館」等を表す”-arium”を組み合わせた造語で「人と熱帯植物が共存できる空間」lを意味しているそうだ。
210513_09 ひとつは、ギャラリーやショップからなる[ガーデンプラザ]、旅の思い出を深めるためのゾーンです。そしてもうひとつは「洋蘭飯店1・2」、中華料理を主体とした食のゾーンである。この3つを自由に散策することにした。入口でスタンプラリー用の用紙と説明書を貰って入園する。園内には、四季を通じて、500種類20,000株の洋らんが花を付けるラン室をはじめ、サボテンが観賞できる多肉植物室、熱帯林植物室、水生、水辺植物室などの温室が広がり南国ムード満点だった。珍しい変わったランなどがあり目を楽しませてくれた。
210513_17 東伊豆、南伊豆、中伊豆と観光してきたが、まだ一度も富士山を見ていなかったので伊豆長岡の近くにある「かつらぎ山パノラマパーク」に行くことにした。山頂公園からは富士山、駿河湾、箱根、天城の山々など、360度の大パノラマの風景が広がるはずだ。 標高452mのかつらぎ山の山頂と山麓の全長1800mをロープウェイに乗って山頂を目指す。片道所要時間は約7分だった。頂上に着くと、周辺は展望公園としても整備され、みはらし茶屋もあり、ベンチが沢山あり、ハイキングを楽しんでいるグループも来ていた。みはらし茶屋の脇を行くと、京都の清水の舞台をイメージした展望台の「かつらぎの舞台」があり、北に富士山・箱根連山、西に駿河湾、南に天城連山を見ることができる。そばには「二等三角点」の表示板と「源頼朝の鷹狩り」の像があった。
210513_16 この日は曇っていて見晴らしが悪く富士山は顔を見せてくれなかった。近くには百体地蔵などもあり、中にはゴルフ地蔵などが奉納されていた。その他にも下駄供養塚などもあった。頂上付近には葛城神社が祀られていた。富士山が見えなかったため期待外れとなり早々に下山する。

2009年5月29日 (金)

雨上がりの散歩

Kc270164 昨日は大雨だったが、今朝はからりと晴れている。身体がムズムズしてウオーキングをしようと思い、久しぶりに朝早く河川敷に出てみる。沖には既にカヌーに乗って水面をスイスイ気持ちよさそうに滑っている人達もいた。おそらく近くの学校の生徒の朝練だろう。
Kc270172 帰りに川の中を見ると水面にクラゲがポカリポカリと浮いて水に流されている。いつもは6月にはいるとクラゲが大量発生するのだが、これから発生する前兆だろうか。模様が美しかったので携帯のカメラで写してみた。

伊豆旅行 修善寺

210513_01 前日、明徳寺を見物して修善寺温泉に向かう。この温泉は1200年の歴史を誇り、弘法大師が開創し、修善寺という地名の発祥となった寺がある街だ。我々はこの街中にある「宙(sora)」という宿に宿泊した。自然の中に佇む、解放感あふれる露天を満喫。約8000坪の広大な敷地に建ち、周囲は見渡す限り緑という四季の移ろいを満喫できる宿で、大浴場や寝湯、ジャグジーなども楽しんだ。スタッフの方々は若くて美しくハキハキしていて気持ちが良かった。夕べは遅くまで幹事の部屋で2次会のダベリング。その時に修善寺の町中散策は旅館にいる間に済ませようと話し合っていた。夜は遅かったのだが、お年寄りは朝が早い。5時になるとゴソゴソ、ガサガサ起き出す者がいて、朝風呂にいく。風呂から上がってビールで喉を潤し、朝食までに温泉街を散策することにした。
210513_4 宿を出てすぐの所に「独鈷の湯(とっこのゆ)」があったのだが、今は工事中だった。この温泉は修善寺温泉を流れる桂川の中にある歴史的な温泉だが川の中央に土台の岩や大きな石を積み上げて浴槽を作っている。しかし近年かさ上げされている独鈷の湯のために大雨のときなど川の流れが阻害され、氾濫を引き起こす原因となりかねないとして、現在地から左岸下流の河川敷に移動させるという。しかし移転を残念であるとして望まない住民の声もある。独鈷の湯は、弘法大師が大同2年(807年)、この地を訪れたとき、桂川で病みつかれた父の体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷たかろう」と、手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたという。そして、大師が父子に温泉療法を教えたところ、不思議なことに、父の十数年の固疾はたちまち平癒したと伝えられ、その後この地方には温泉療法が広まったという。いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものといわれている。近くには「弘法の湯」という飲める温泉も湧いていて、試飲した。湯かけ稚児大姉像などもあり、お参りした後、修善寺に向かう。
210513_05 修善寺は、弘法大師が開創し、平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから桂谷山寺といわれ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほど格式の高い寺だった。その後、鎌倉時代初期になって修善寺と呼ばれるようになった。源頼朝の弟の源範頼と、その息子で鎌倉幕府2代将軍源頼家が幽閉され悲況の死を遂げたことでも知られている。
210513_06  その後、隣にある日枝神社に参拝する。昔は修禅寺の鎮守さまであり、境内には夫婦杉の大木や県の文化財に指定されている一位樫がある。また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存している)があった。
210513_07 神社に参拝した後、楓通りを通り桂橋を渡って竹林の小径の中を散策する。孟宗竹の大きな竹が植えられていたが、最近植えたんのだろうか、あちらこちらに「竹の子を採らないで」との看板が出ていた。楓橋を渡ってしゅぜんじ回廊をを散策、源 範頼の墓を見物に行く。
210513_08  墓は温泉場の西北側の山腹にあった。範頼は鎌倉初期の武将で、義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ると、範頼も背くようになると疑われるようになった。建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝えられ、悲しむ政子を慰さめて「範頼あるかぎりご安心下さい」といったことから、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁につとめたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められて、日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。
 朝の散策を終えて宿に戻る。

2009年5月28日 (木)

例会に参加

Dsc_0373 元職場連中の例会に参加する。いつもは、月初めに実施されるのだが、今月は伊豆旅行などがあったため延期されていたのだ。旅行に行った連中の他に2名が参加して宴会だ。今回は不思議なことに酒が売れず、代わりに焼酎が2本空いた。珍しいことだ。旅行に行かなかった人から旅行の様子を聞かれ、楽しい思い出を話す。いろいろな失敗談や、各地での楽しい様子などを土産として話した。旅行に参加した連中からは、写真のDVDなどを配布していただいた。皆さん楽しいひとときを有り難う。
 帰ってからいただいたDVDを鑑賞し、再び楽しかった旅の様子が思い出され感動した。編集していただいたHさん有り難う。

伊豆旅行 明徳寺

210512_26 浄蓮の滝を観光を終えると、運転手さんが「皆様も大分お年を召されているようですから、これから下の病気にかからないよう、あるお寺にご案内しましょう。この寺をお参りすると霊験あらたか病気にかかりませんよ。」といって、湯ヶ島温泉の近くにある、明徳寺の参道の駐車場に車をつける。降りて参道に行こうとすると、門前の店の人が「ここは、午後4時になると門を閉めるので帰ってくる頃には、門は閉まっていて出られませんよ。」という。時計を見ると、午後4時5分前だ。「何か方法はありませんか。」と尋ねると、「参道を登り、山門の近くに駐車場があるので、そこに行けばお参りできますよ。」と教えてくれた。
210512_25 早速、車で山門に向かう。境内に入り本堂に向かうが何の変哲もない普通のお寺のように思えた。運転手さんが「こちらへ来てお祈りをしてください。」と言って案内してくれたのは、別棟にある「おまたぎ」「おさすり」のあるお堂だった。説明書によると、明徳寺(みょうとくじ)は室町時代の明徳年間(1390~1394))頃に利山忠益禅師によって創建された曹洞宗の寺院で、東司(とうす)の神様である烏彗沙摩(うすさま) 明王を祀っている事でも有名。ちなみに東司とはトイレのことで、500年前からこの明王様は、「不浄のものを清浄にする徳」を持っているので、トイレの中にお祭りして“下”の病気で困った人々を助けてきたと言われているそうだ。
210512_27 ご神体が鎮座する便所に跨ぎ、お祈りする「おまたぎ」、自然木の男女性器を撫でる「おさすり」は、年老いても下の世話にならないようにと健康と幸福を祈る。境内はごく普通のお寺なのだが、トイレの横に、もうひとつのトイレ「東司」があり、ここは同寺のご神体が祀られている神聖なるトイレだった。お守りには便所に祀るお札、身体につけるお守り、下着類などを「お守り」として販売している。ズロース、ブリーフ、パンツのほかに、「越中褌(えっちゅうふんどし)」も販売していて、ご朱印の入った褌は、霊験あらたかだと言われています。伊豆3大奇祭のひとつとして東司(便所)の守護神、鳥彗沙魔明王の祭典が毎年8月29日に行われるそうだ。
210512_28 山門の石段の横には、応永の槙(まき)という巨大なイヌマキがある。樹齢は600年で全国第2位だそうだ。すぐ近くにわさび漬けを売る土産物屋があり、中に入ると店の主人は上半身裸、ステテコ姿で「もう店閉めるから早くして!4個なら1000円にしとく。早くして。私は糖尿病だから・・・」と意味もなくまくし立てている。「2個なら500円だね。」と誰かが言うと「うちは団体さん相手だから少しは売らない」という。「でもあそこに2個500円と書いてあるよ」というと「じゃあ良いから買って」といわれて衝動買いする。自動車に戻ると誰かが「安物買いの銭失いでなければいいが、目方が少ないとか、品質が悪いとか、賞味期限が過ぎているとか」といって冷やかす。そう言えばタイで買った土産物、中国で買った土産物での失敗談を思い出して笑っていたが、内心少し心配になっていた。でも愛嬌だと諦めて修善寺温泉にある宿に向かう。

伊豆旅行 浄蓮滝

210512_20 やがて浄蓮の滝の駐車場につく。ここに来るのも新婚旅行の時以来だ。その時の様子などを思い出しながら徒歩で急な坂道を降りていく。
 浄蓮の滝は伊豆半島天城山中の原生林の中にある滝で、滝口の玄武岩から豪快に流れ落ちている幅7m、高さ25m、滝壺の深さ15mの滝である。また、浄蓮の滝は日本滝100選にも選ばれている伊豆の名瀑である。石川さゆりの歌「天城越え」に歌われている有名な滝だ。標高は310mほどで、滝へ行く道は、階段などが整備されているが、かつては天城山中の原生林の中にあり、断崖と深い谷に阻まれてなかなか見ることが出来なかったそうである。また浄蓮の滝の正面には柱状節理や玄武岩が見られることからも分かるように、かつては火山活動によって流れ出した溶岩がこの滝を形作っていったようだ。
210512_22 実際に浄蓮の滝に行くには、約180段ほどのかなりの勾配のある急な階段を下りていかなければなならない。当然、帰りの登りの階段も非常に体力を使う。登りきる頃には額から汗が滲んでくる。
 階段を下りたところには、わさび田があり、わさびやその加工品が販売されている。友人達もわさび漬けなどを味見して買っていた。
  このあたりを題材にした「女郎蜘蛛伝説」という昔話などの看板も出ていた。
昔話の内容はこちらへ

2009年5月27日 (水)

伊豆旅行 河津七滝

210512_14 唐人お吉記念館を後にして、国道135号線を北上する。河津の町に入り河津川に沿って左折、414号線に入る。河津川界隈は、河津桜で有名で3月になると桜が満開になり約1ヶ月間は花見ができ、見物客で賑わうそうだが、今の季節は閑散としていた。やがて左手に峰温泉噴湯公園が見える。ドライバーさんが、「入ってみますか。」というので立ち寄ることにした。しかしいってみると、定休日の看板が出ていて閉園していた。運転手の話によるとこの噴湯は人工的で自然な噴出ではないらしい。
210512_15 ちょっとのぞいてすぐ河津七滝へ向かう。河津七滝は静岡県の伊豆半島中部、河津町にあり、河津川沿いの渓流で、1.5kmの間に大小七つの滝があり、総称して河津七滝(かわづななだる)と読んでいる。その河津七滝のうち最大のものは河津温泉天城荘の裏手にある河津大滝で、 高さは約30mほどあり、露天風呂からは迫力のある河津大滝を間近に眺めることができ、河津町の観光スポットになっている。町営の駐車場で下車し、ここからは上流に向かって歩く。かに滝、初景滝まで歩く。途中には伊豆の踊子の像や大岩成就などがある。
210512_16 かに滝は高さ2m、幅1m(長さ15m)、 初景滝(しょけいだる)は高さ10m、幅7mで「踊り子と私」のブロンズ像があり、滝祭りのメイン会場ともなっている。ここで小休止をして次の滝に行こうというと、「こんな急な坂道を登って、落ちたらどうするの。止めとこ。」という声が聞こえてきて、「それもそやな」衆議一決。元の道に引き返すことにした。この上流には、蛇滝、えび滝、釜滝があるそうだ。駐車場に戻り、車で昼食会場に行く。
210512_17 そこから出会滝、大滝を見るために急な階段を下りていく。途中に出会滝があり、2つの川が合流したところに滝があった。さらに下り、河津温泉天城荘の境内を通って降りていくとやがて大滝の展望台に到着する。大滝は河津七滝中、最大の高さを誇る滝だ。 滝の全長30m、幅7m 垂直立ち上がる玄武岩の壁から雄大に水が流れ落ちている。 滝壺の近くには小さなプールもあり泳いでいる人もいた。ここから先の滝壺には天城荘利用客しか入場できなかった。私有地なのだろうかと疑問に思いながら観光して昼食場所に戻る。通常、「滝」という漢字は「たき」と読むが、河津七滝では「たる」と読む。平安時代から伝わる民族語が由来であるらしい。「河津七滝」およびその7つの滝の名称は「だる」と濁った読み方をすると運転手が教えてくれた。
210512_18 昼食はそばにしようと店に入る。空いていて客は我々だけだった。天そばを注文するがなかなか出てこない。すると誰かが「手伝いまひょか。」と言って来てはどうか、というので皆大笑い。20分ぐらい待っただろうか。出てきた天ぷらは、海老有り、魚有り、かき揚げ有り、アシタバなどの山菜有り、数の多さにびっくりぎょうてん。時間がかかったのはこの為だと納得して食べる。昼食後次の目的地に向かう。ループの国道を通り高度を上げていくと段々見晴らしが良くなっていく。やがて天城峠を越える。昔の道は細い道だったが現在の道は広くて、「伊豆の踊子」のイメージは湧かなかった。

2009年5月26日 (火)

伊豆旅行 了仙寺・唐人お吉記念館

210512_10  あいあい岬を後にして、了仙寺に立ち寄る。了仙寺は日蓮宗の寺院で、創建は寛永12年(1635)だ。大阪夏の陣の時、家康公は、家臣の勧めにより当時目の神様として崇められていた行学院日朝上人に病平癒の願をかけ、その祈願が成就した後、第三代将軍家光公の命により建てられたのが了仙寺である。現在でも眼病治癒の祈願のために訪れる参拝者は少なくない。また、下田条約が締結された場所でもある。嘉永7年(1854)神奈川において日米和親条約が締結され、下田の開港が決まり、ペリー率いる黒船が続々と下田に入港した。了仙寺はペリーを初めとするアメリカ使節の接待所兼徳川幕府との交渉場所となった。
210512_11  同年5月、了仙寺において日米和親条約付録下田条約が締結された。内容はアメリカ人の日本における規則ともいうべきもので、日米の異文化交流の歴史がここから始まった。この条約により、下田は日本で初めて外国人が自由に町中を歩ける町となった。日米の異文化交流の歴史は下田から始まったのである。黒船祭は、当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約締結された5月に、毎年行われている。黒船に関する膨大な資料は了仙寺宝物館に所蔵展示されているが、時間の関係で宝物館の入場は割愛した。境内にはアメリカジャスミンの花が満開だった。白と紫の花が強い香りを放っていて、訪れる人々に感動を与えていた。日差しはきつく、寺を出る頃には汗びっしょりだ。門前にある店でジャミン入りアイスクリームを賞味し、少しは体温が下がったような気がした。
210512_12 その後、唐人のお吉記念館を訪れる。お吉は本名を「斎藤きち」といい、17才で下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれて異人(ハリス)の侍妾(じしょう)となり、大きく人生が変わる。ハリスに仕えた期間は、ほんの僅かだったが、お吉は、「唐人」とののしられ横浜に流れ、後に下田へ戻って小料理屋「安直楼」を開くが、酒に溺れて倒産。明治24年3月27日の豪雨の夜、川へ身を投げ、自らの命を絶ってしう。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕だ。この事件は、幕末開国に伴う一悲話として、小説にもなり、今では舞台での上演などもされいる。お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」(しゃくじょうかんに)を贈り、宝福寺境内に葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っているそうだ。
 お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているようだった。 何とも、もの悲しく感じて記念館を出る。

2009年5月25日 (月)

伊豆旅行 石廊崎・あいあい岬

210512_04 9時30分に旅館を出て石廊崎に向かう。石廊崎港の駐車場で車を降りる。土産物店のおばさんが帰りに立ち寄ってくれるなら駐車料金は無料にしますというので、そこの駐車場に車をとめることにした。この港からは遊覧船も出ているが、毎時30分なので、出港した後だった。やむなく歩いて石廊崎の先端に向かう。昔、来たときはもっと賑わっていたように思ったが、どの店も閉鎖されていて、公園も立ち入り禁止となっていた。観光する人が少なくなったのだろう。25分ほど歩くと石廊崎灯台に着く。ここも立ち入り禁止だった。
210512_041  灯台の右手の細い道を下っていくと 岩場にへばりつくように石室神社がある。この神社は石廊権現や、石廊崎権現とも呼ばれ、古くは伊波命神社(いはれのみことじんじゃ)とも呼ばれていたとされ、祭神は伊波例命といわれているが定かでない部分もある。さらに50m程離れた岬の先端に行くと熊野神社があるが事実上は一つの神社として扱われることが多い。この神社は縁結びの神として祀られ、次のような言い伝えがあるそうだ。
210512_05  その昔、長津呂(石廊崎)に住むお静と名主の娘が、漁師の幸吉と恋に落ちた。身分の違いからその恋は許されず、幸吉は神子元島に流された。幸吉を忘れられないお静は、毎晩、石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を確かめあっていた。ある晩神子元島の火が見えないので心配したお静は、小船を出して神子元島に向かったが、折りからの季節風で波は高く船は思うままに進まなかった。お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって神子元島に漂着し、無事二人はめぐりあい結ばれた。親も許すこととなり、末長く幸せに暮らしたという。 お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られた。
210512_07  元きた道を引き返す頃には、汗だくになっていた。港に着いたので、折角来たのだからと遊覧船の乗り場に行ったが舟は出航した後で、次は1時間後だ。諦めて土産物屋に入ってビールで喉の渇きを癒す。店のおばさんに景気を聞くと、余り良くないとの返事があった。土産物を買い再び車に乗り奥石廊崎(愛逢岬)に向かう。奥石廊崎(愛逢岬)は
下田から石廊崎のさらに奥へと行くと断崖が続く奥石廊崎が現れる。この絶好の展望場所となるのが通称「あいあい岬」と呼ばれる駐車場。
210512_08  伊豆南端の男性的な海岸美を一望できる観光名所。ドライブの合間にちょっと一服。野生の猿が生息する大根島を正面に望み、土産物も豊富な格好の休憩所だ。伊豆の最南端である奥石廊崎では、東の海と西の海の表情が異なる。一方が荒れていると、一方は静かな海というような、先端ならではの景色を見ることができるそうだ。 駐車場につくと土産物屋のおばさんが展望台の前にある植木を苅っている。仲間の1人が、刈り込みばさみをおばさんから取り上げて、植木はこのように苅るのだと指導しながら刈り込んでいた。腰が痛い、足が痛いと言っていた人だが、自分の趣味に入り込むと痛さは吹っ飛んでしまうらしい。皆から冷やかされながら作業を進め、途中で時間がきたからと投げ出して再び次の目的地に向かう。

2009年5月24日 (日)

伊豆旅行 下田・入田浜の宿「濤亭」

210512_03 17時前、浜辺の宿「濤亭」に到着する。部屋は下田の入田浜に面したオーシャンビューの見晴らしの良い部屋だった。浜ではサーフィンに興じている若者がいた。スタッフの方が来られて浴衣のサイズを変更、取り替える。そしてお茶請けのところてんが出される。
210511_192  このところてんは石廊崎の海女さんから直接テングサを買い付け、その日の客にあわせて女将さんが作っているそうだ。四角に切ったところてんに黒蜜をかけて食べるくずきり風で、あっさりしていて美味しかった。普段甘い物を食べない人も美味しいと言って食べていた。小休止すると早速風呂に入り疲れを癒す。格調高い檜と伊豆石を用いている。木肌のぬくもりに触れ、今日の疲れをとり、ゆったりとくつろげる空間だ。 耳を澄ますと、かすかに聞こえる波の音が気持ちを落ち着かせてくれる。
210511_21 やがて夕食になる。和食の会席膳だ。一品一品ずつ運ばれ、冷たい料理は冷たいうちに、暖かい料理は暖かいうちにとの配慮がされていて気持ちがよい。特にすすめられたのが、当日の朝、下田港で水揚げされたばかりの地鯵をつみれにしたつみれ鍋だ。つみれを竹筒から竹へらですくってアツアツの鍋へ入れる。下田の地鯵は脂ののりがよく、また弾力があり、つなぎの自然薯の口当たりも絶妙で、さっぱりとした潮仕立ての鍋に酒もすすむ。
210511_22 やがて大きな伊勢エビが一人一人に出され、金目鯛の煮付けなどに舌鼓を打ち、満足して夕食を終え部屋での懇談になる。老人達は、昔の思い出話などが次々と飛び出し、笑い転げ、楽しいひとときだった。一段落すると再び風呂ヘ行き就寝する。汗をかくだろうと、2枚目の浴衣が用意されて着替えができるようにとの配慮があった。嬉しい配慮だ。
210512_02  翌日老人達は早起きだ。朝風呂につかり、朝の入田浜に出て付近を散策する。浜は細かい白い砂で、塵一つ落ちていないきれいな浜だった。日頃、腰が痛いと言っていた人も、このときばかりはと急に走り出す。とても老人とは思えない走りだ。「この人が日頃腰が痛いと言っている人?」と皆が笑う。童心に返って砂遊びに興じる人もいた。昨日見たサーファーも沖に出ていた。近くのサーファーに声をかける。「寒くないですか。」「寒くはありませんが、もう少し波が欲しいですね。」そういえば、白波が少ないけれども時折来る大波に乗って気持ちよさそうに波乗りを楽しんでいるようだった。

2009年5月23日 (土)

伊豆旅行 熱川バナナ・ワニ園

210511_13  土産物屋を出て、次に熱川バナナワニ園を見に行く。入口では、幹事とそれを取り巻く仲間が何か言っている。よく聞いていると、入場料が高いの安いのと議論しているらしい。過去に、みんな何度も見に来ているので、止めようという人、1300円は高いから止めようという人、折角ここまで来たのだから見ていこうという人。いろいろな意見があったが、結局は入って見ていくことに決定した。始めに入園した場所はワニ園だった。熱川温泉を利用してワニを飼育してるが、クロコダイル、アリゲータ、カビエアルの種類があるそうだが、素人の私たちにはどのワニがどの種類に属するか判別できない。大きいワニ、小さいワニぐらいの知識しかない。皮革がベルトや財布になるぐらいの知識だ。
210511_15 早々にワニ園を出て分園のバナナ園に向かう送迎バスに乗って移動する。分園にはラン、バナナ、パパイヤ、などの熱帯植物の展示があった。幾種類もの変わったランが花をつけていてその美しさに感動していた。
210511_16 この分園には植物の他に、フラミンゴ、ニシレッサーパンダ、クロトキなどの動物も展示されていた。特にレッサーパンダの数は多かったので飼育員に尋ねると、一頭のみが外部での繁殖だがその他は全てこの園で繁殖したと言っていた。日本では唯一、ニシレッサ-パンダを飼育している動物園だそうだ。
210511_17 分園を後にして本園に戻り、前にある植物園に入る。植物園には洋蘭、原種ラン、熱帯性スイレン、オオオニバス、シダ類など観葉植物などが展示されていた。
210511_18 特に原種ランには瀟洒で、かわいらしくて珍しい色の花を咲かせているものがあり、いつまでも見とれていた。植物の他にもマナティが展示されていて、水中で餌を食べる様子が見え、珍らしく感じた。15時40分頃に園を出て、今夜の宿泊場所である下田の入田浜に向かう。

伊豆旅行 乾物屋の土産

210511_10 城ヶ崎を観光して車に乗り移動する。運転手は「このあたりは干物が有名ですよ、下田に行っても干物はありませんから、ここでお土産に買って送ったらどうですか。家に着く頃には届いていると思いますが・・・特にここで販売しているトロ鰺の干物は絶品ですよ。」とアドバイスがあり、土産物屋に車をつける。そして更に「試食はOKですよ」と言ってコンロの網の上に鰺の干物やイカの干物をのせて焼いてくれ食べさせてくれた。
210511_11 仲間達は「薄塩で美味しいといいながら酒があれば、より良いのにナア」というと運転手は「お酒もありますよ」といってコップに酒をついでくれる。近くには酒と使用済みのコップもあった。更に金目鯛の干物、イカの一夜干し、鰺の開きなどが置いてあって、自由に焼いて食べても良いとアドバイスがあった。不思議な土産物屋であったが気をよくして土産に干物を買って家に送る。

2009年5月22日 (金)

伊豆旅行 城ヶ崎にて

210511_05  食事を済ませ、国立公園の城ヶ崎海岸へ向かう。車を降りると運転手さんが「集合場所をここの駐車場にしますので各自で観光してください。ただし、のぞき込んで海に落ちないようにくれぐれも注意してください」といわれ、皆思い思いに出かけることにする。城ヶ崎海岸は、天城火山の溶岩が流出し、海の侵食作用で削られてできた雄大なリアス式海岸である。海岸線には絶壁が連なり、幾重にもふところ深く入り組んだ岩礁、岬から岬へと続く眺めはまさに壮観だった。
210511_06  まず最初に全体を見ようと思って門脇灯台の展望台に登る。かなりの数の螺旋階段をフウフウ息を切らせて登っていくと、やがて展望室につく。この展望台からは遠く伊豆七島や天城連山の峰々を望むことができるのだが、当日は霞んでいて見えなかった。しかし城ヶ崎の全貌は見ることができた。この門脇崎灯台は、昭和35年3月に建設されたが、平成7年5月に展望台付きの灯台に改築された。 新灯台は、地上24.9mの高さですが、地上17mのところに収容人員30名の第一展望台(室内)が、地上4mの所に収容人員60名の第2展望台が設置されている。
210511_07  展望台を降りて吊り橋の方へ向かう。この吊り橋は門脇吊橋で、長さ48m、高さ23mである。「かどかけ」と門脇岬の間は4000年前に大室火山の溶岩流が、表面の冷却した部分を残して海面に流れ出して行った跡で、台地のうしろに大きなくぼ地を残している。半四郎落しと門脇岬の間の海蝕洞に、城ヶ崎の名所として、吊り橋が設置され、断崖絶壁のスリルを味わうことがでた。橋を渡ると、溶岩のごつごつした岩場になり、断崖絶壁が続く。岬を散歩して疲れた4人は近道して駐車場に戻る。しばらく待っていてが、4名が戻ってこない。「失踪?転落?老人の徘徊?」一瞬その言葉が脳裏をかすめる。いなくなった内の1人は足が痛いとか、腰が痛いと言っていたので、もしかして足を踏み外して落ちたのでは無かろうかと心配になってきた。
210511_08  いくら待っても戻ってこないのでしびれを切らして電話をすると、別の駐車場に車を回して欲しいと言うではないか。地理不案内の為、運転手に交代して話を聞いて貰うと、約3km先の別の駐車場へ行ったようだ。ヤレヤレ人騒がせな・・・なんて言いながら車に乗り、迎えに行くことにする。後で彼らの話を聞くと「皆と別れてどんどんすすんでいくと、幕末頃の砲台跡や城ヶ崎ブルース歌碑、ぼら納屋などがあったので見に行った。戻ろうとしたが可成り、きつくて戻れない。」とのことだった。罰に彼らが見に行った場所の話を聞く。最初に砲台跡を訪れ、それからぼら納屋に行き、そこの駐車場に行ったようだった。砲台跡は幕末のころ、この地を管理していた沼津藩水野氏が黒船の来襲に備えて四門の大砲を備えつけたそうだ。また、
210511_09 ぼら納屋はぼら漁の根拠地で、ぼらが回遊する春と秋に漁師が住みこみ、ホラ貝や旗を合図に出漁し、取ったぼらを江戸城に献上したといわれている小屋だそうだ。「皆に心配を掛けてごめんね」と言うので許すことにする。人騒がせな珍道中だった。

2009年5月21日 (木)

伊豆旅行 熱海から伊東へ

Img_0800  約3時間ひかり号に揺られて熱海に11時頃着いた。改札を出ると呼び込み札を持った人がいる。札に書かれている名前は会の名前ではなく個人名だった。早速つっこみが入る。「あれっ!この旅行は戸田(へた)さんの招待旅行やな。ありがとう」「そんなの、あかんで!わしゃ知らんで」戸田様の名前を書かれた幹事さんあわてて打ち消しに躍起だった。皆で幹事をひやかしながら車中の人となる。「運転手さん、お腹空いたんだけど、何処かおすすめの店ありますか。」「伊豆高原に行くと萬望亭という店があり、そこは新鮮な地魚を使用しているので美味しいですよ。」「じゃあそこに行って」即決だ。
Img_0809 1時間ほど車で移動。店に到着すると、早速注文する。日替わり定食は鯖の刺身か金目鯛の味噌付の焼き物だ。それぞれが好みの品を注文。おとむさんは鯖の刺身定食を注文する。刺身は新鮮で美味しかった。ついでに地酒を飲もうということになり、「八幡の杜」という地酒を注文する。近くには八幡宮来宮神社もあり、おそらくそれにちなんだ名前ではなかろうか?口当たりがさっぱりしていて、刺身にはぴったりだった。店は名前の通りマンボウの刺身などが食べられるそうだ。マンボウは卵形で、背びれと尾びれが上下に突出していて、尾びれがない。普通の魚にはある尾びれを支える骨もない。皮膚はつるつるしているように見えるが、実は厚くざらざらしているらしい。体長4m・体重3トンにまで成長した記録があるそうだ。百年以上生きるという説もあるが詳しい生態は不明だ。グロテスクにも見えるが、愛嬌のある目が可愛く見える。いつか1回は賞味してみたいと思う。食事を美味しくいただいた後、次の目的地に向かう。

2009年5月20日 (水)

伊豆旅行 新幹線の車中で

210511_2_2  新幹線に乗る前に幹事は、売店でビールを購入してくる。それを見て酒が欲しい、お茶が欲しいと幹事に注文。幹事は「列車が早く来れば、言われなくて済むのに」とブツブツ言いながら再び買いに走る。やがて列車が入線してきて乗り込む。和歌山で無農薬の家庭菜園をしている友人は、奥さんが手作りしてくれたそら豆の塩ゆでと、エンドウ豆の空揚げを持参して皆に配る。ビールのつまみにはとても合っていて美味しかった。中には「ゆですぎ、塩が足りない。」などと、クレームをつける人もいたが、奥さんの心遣いが大変嬉しかった。いつもだと使い捨ての紙コップか、プラスティックのコップだが、今回はエコに配慮して幹事が買ってきたコップだ。「このコップは旅行中同じ物を使ってください。各自で洗うように・・・・」といってイニシャルのついたハンカチとコップを配る。何と行き届いた、すばらしい幹事ではないか。外の景色を楽しみながら、久しぶりの旅行にワクワクドキドキ話が弾む。酒がすすむ。

2009年5月19日 (火)

干潟で見つけた

P1140115 久しぶりに甲子園浜の干潟へ行ってみた。干潟は満潮で水没していたが、波打ち際には、チュウシャクシギやキアシシギなど何種類かの水鳥が餌をついばんでいた。
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伊豆旅行のはじまり

210511_1 今年の1月に富士山を見るために西伊豆へ行ったのだが、今回は気の合う仲間7人と東伊豆・中伊豆へ旅行することになった。南伊豆へ泊まるのは数十年ぶり、中伊豆に泊まるのは新婚旅行以来のなので40数年ぶりだろうか。東伊豆の熱川、稲取には何度もいったことがあったが、仲間との旅行は初めてだ。年寄りばかりの旅行なので、小遣いに定額給付金を使おうということになったのだ。一人だけ低額給付金で、残りは高額給付金だとぼやいている人もいたが楽しみにして出かけることにした。新大阪に集合すると、早速食事代、酒代として定額給付金の集金が始まる。自前で不足分を負担する若手はブツブツ。これからどうなる事やら・・・・「珍道中のはじまりsign03はじまりsign03

2009年5月18日 (月)

中山道の妻籠宿から三留野宿へて野尻宿へのフォトストーリー

  中山道の妻籠宿から三留野宿を経て野尻宿へウオーキングしたときのフォトストーリーをアップする。

2009年5月17日 (日)

OB会に参加

Dsc_0011 1年ぶりにOB会の総会に参加した。総会は毎年開催されるのだが、その他にも見学会が1回あり、1昨年、昨年と欠席していた。若くして亡くなられた方々、天寿を全うされた方々に黙祷を捧げ、総会が始まる。米寿、喜寿を迎えられた40数名の方々の表彰もあった。総会が終わると大勢の先輩や同僚達との交流が始まり酒を酌み交わしながら、昔話に花が咲く。この1年間に骨折された人、癌の治療をされた人なども回復されての参加だ。我々の仲間から今後2年間、世話をされる幹事さんも選出され、喜ばしい事だ。その後二次会に繰り出し、再び話が弾む。来年も元気で会えることを誓って別れた。

2009年5月16日 (土)

中山道の落合宿から馬籠宿を経て妻籠宿へ フォトストーリー

 中山道の落合宿から馬籠宿を経て妻籠宿へウオーキングしたときのフォトストーリーをアップする。
 詳しくはこちらへ

2009年5月15日 (金)

えっ!!いつのまに??

P1140074 いつものように武庫川河川敷をウオーキングしていた。国道2号線あたりで一級河川の看板が出ていたが、いつもと様子が違っていた。看板を見ると「1級河川 汐灘川」と書かれているではないか。いつの間に川の名称が変わったのかなあと思いながら廻りを見渡す。望遠レンズをのぞいて写真を撮っているいる老人に尋ねたが、「よくわからない」との答えが返ってきた。
P1140098 川の中では警察官がなにやら捜し物をしているようだ。岸には制服を着た警察官が数人いるではないか。「おお!事件か」。あたりを見回すとカメラがある。コマーシャルなど撮っているのだろうと思って対岸に行くと、たくさんの自動車が停車しているではないか。廻りのスタッフの方に聞くと、ドラマのロケをしているとのことだった。映画のロケですかと尋ねると、秋頃放映するTVドラマのロケだと言っていた。
P1140065 なるほど、それで川の名称が変わっていたのか。sign03それにしても撮影には大勢の人が関わっているようだ。監督さん、俳優さん、大道具・小道具の人、警備員、カメラマンなど長時間の撮影をされるのだと思うが、ドラマの中でどれだけの時間放映されるのだろうかsign02スタッフの人は料理と同じで準備や料理に時間はかかるが、食べるのはその数分の一ですねと、言っていたがまさにそのとおり、見る人は一瞬で終わってしまうのかも知れない。
P1140084 パトカーに書かれている 警察署の名前も汐灘県警察と書かれていたのでやはり撮影だった。

2009年5月14日 (木)

中山道 妻籠宿から野尻宿をへて道の駅大桑へ

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 前日降った雨も上がり、朝7時50分に昼神温泉のホテルを出発する。妻籠の駐車場についたのは8時40分だった。そこでストレッチをしていよいよ出発だ。宿の北側入口にある高札場を過ぎて口留番所を見学し、隣の鯉が岩を見る。
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 岩には藤の花が沢山咲いていた。鯉が岩といわれているが鯉の姿は想像できないほど藤が茂っていた。文化2年(1805)に発行された「木曽路名所絵図」にその絵が載っている中山道三名石の一つだったが、濃尾地震で頭の部分が落ち、形が変わってしまったようだ。

P1130951 左手に妻籠城趾碑を見ながら10分ぐらい急な坂を登ると、妻籠城趾に到着する。今は城の面影はなく、広場と説明の看板があるのみだ。馬籠城は木曽谷の南を固めた城で、主郭、二の郭、空堀、帯曲輪を備えた規模の大きい山城だった。徳川の大軍に対し、難攻不落を誇ったと伝えられている。ここからは、馬籠宿の様子が一望できる景色の良い場所だ。蓋食べ急な坂道を下り、元の道に戻るとダラダラした坂を下っていく。やがて右手に蛇石の標識があるが、石らしきものが見あたらなかったが近くに大きな石があったのでそれが蛇石か?と納得。
P1130960  良寛碑を過ぎて上久保の一里塚へ行く。ここの町内には十二兼・金知屋・上久保・下り谷の四箇所に一里塚があったが、現形を留めているのはここだけだ。江戸から数えて七十八里目の塚だ。しばらく行くと民家の廊下に皇女和宮が使ったと言われる湯殿があった。そこを過ぎると、かぶと観音、神明神社などがある。
P1130975 かぶと観音は木曾義仲が平氏討伐の旗揚げをしたとき妻籠に城を築き、砦の鬼門にあたる神戸に、義仲が守り本尊として甲に納めていた十一面観音を祀ったと伝えられる。近くに義仲・巴のロマンスを伝える「ふりそでの松」もあった。
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 南木曾駅を過ぎて等覚寺に参詣する。等覚寺の円空は美濃国に生まれた江戸時代の初期の僧侶で、一生に十二万体の仏像を作ることを祈願したしたと言われ、等覚寺の円空堂には「韋駄天」「弁財天十五童子像」「天神像」が祀られている。三留野宿は花崗岩地帯で蛇抜けと呼ばれる土石流も多く発生している。本陣は明治天皇が泊まられたが翌年焼失した。庭には銘木も残っている。近くの三殿(三留野)土場と書かれた木材集積場の横を通り、木曽川に沿って北へ北へと歩く。JR12兼駅で昼食にする。

P1140042 更に北上する。木曽川の対岸には読書ダムがあり、そこを過ぎると野尻宿に入る。野尻宿は三留野宿の北に位置し、当時の木曽十一宿の中でも奈良井宿に次ぐ長さを誇っていた。外敵からの侵入を防ぐために道を左右にくねらせた「七曲がり」と呼ばれる道が特徴だ。現代は建物の近代化が進み宿場町の面影は薄れたものの、まだ街道筋の建物の2階に宿場町の当時の面影が残っているものも少なくない。JR野尻駅で小休止したのち、道の駅大桑でバスに乗り込んで帰宅の途についた。約5時間、20kmのウオーキングであった。
 妻籠のフォトストーリーはこちらにあります。

2009年5月10日 (日)

中山道 落合宿から妻籠宿へ

P1130647sa_2 数日前の天気予報では、この日は曇りとの予想だったが、当日は朝から雨になってしまった。あちらこちらとウオーキングに行って雨に降られたのは2回目だった。雨の中のウオーキングと覚悟を決め、雨具を準備して集合場所に出かける。それでも何とか小降りにならないかなとバスの中で外の天候に一喜一憂していた。中央道の恵那峡SAに付いたときには少し小降りになっていた。昼食を済ませてストレッチをして落合宿に向かう。
P1130663_2 15,6分後に前回の到着地点に着き、12時30分にウオーク開始だ。雨は激しく降り始め、雨男か、雨女がいるなあと思いながら、落合宿高札場跡を過ぎて宿場の中を通る。そして落合川にかかる小さな橋(下桁橋?)を渡る。江戸時代には大橋とか、落合橋と呼ばれて少し下流にあったそうだ。洪水により度々流失していたこと、ここから医王寺までの登り道がつづら俺の難所であったため、寛保元年(1714)から神坂湯舟沢経由の新道ができた。しかしこの道も悪路で距離も長くなったため明和8年(1771)十曲峠を通る以前の道に戻ったそうだ。
P1130666_2 そんな話を聞きながら雨の中を歩く。雨の中で自生の山藤がきれいな花を咲かせていた。
P1130677_2  15分位歩いて医王寺に到着する。医王寺の創立は、はっきりしないが古くは天台宗の寺院であったが、争乱で堂塔が皆罹災して廃寺となった。1544年(天文13年)再興し浄土宗に改宗したと伝えられる。昔は七堂伽藍の巨刹で、本尊の薬師如来は行基の作と伝えられている。ここの薬師は地名が山中にあるので、一般には山中薬師と呼ばれている。三河の鳳来寺・御嵩の興願寺(蟹薬師)と並んで三大薬師の一つである。薬師堂の横、池の前に芭蕉の句碑がある。“梅が香にのっと日の出る山路かな”の句碑が建つ。
P1130694_2 医王寺を後に深い木立の中にある急な石畳みの坂を登っていく。この石畳がいつ頃できたかは不明だが皇女和宮や明治天皇が行幸されたときには改修されたそうだ。
P1130702 5、6分行くと右手になんじゃもんじゃの杜があり、木の自生地がある。「ナンジャモンジャ」の木は「ひとつばたご」といい、古生代の木だそうだ。5月中旬頃の開花だそうだが今年はまだ咲いていなかった。
P1130721 更に石畳の道を上っていき十曲峠に着く。この峠は落合宿と馬籠宿を結ぶ峠で石畳の道沿いには一里塚や休憩所も設けられていて多くの旅人で賑わった面影が見える。やがて新茶屋の一里塚が見え、集落にはいる。近くには「新茶屋信濃・美濃国境」の石標もあり、ちょうどこの辺りが岐阜県と長野県の県境になっているようだ。いよいよ長野県に入ることになる。芭蕉の「送られつ送りつ果ては木曽の穐」の句碑を右手に見ながら馬籠方面に向かう。

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2009年5月 6日 (水)

苺狩り

Kc270152_1 姫路で妻の友人が、私たちのためにわざわざ、丹誠込めて苺を作ってくれていた。そしてその苺が大きく赤く熟してきたので収穫に来ないかとの誘いがあった。予定では来週辺りが取り頃だろうとの連絡があったが、来週はいろいろとこちらも予定があるので今週いきたいといっていたのだが、雨など天候の影響もあり、お天気任せにしていた。予報を見て急遽電話し、押しかけることになった。畑に行くとスナックエンドウ、絹さや、タマネギ、苺、メロン、カボチャ、スイカ、トマト、茄子、ジャガイモ、レタスなどが沢山植えてあった。この友人は商売にしているのではなく、趣味で園芸を楽しんでいるのだ。奥さんと2人で耕したり植えたり、草抜きしたり、結構忙しいようだ。話によると食べきれずに捨ててしまう方が多いそうである。
Kc270161 絹さや、苺、タマネギ、レタスなどを収穫して持ち帰る。収穫後、友人宅で酒盛り。懇談の後、全て我が家へのお土産となる。結構重たかったが欲と二人連れで持ち帰ることにした。帰宅後、早速苺をいただくことに・・・店で販売している品物と違って、新鮮で美味しかった。友人の話によると冷蔵庫で1,2日は保存できるとのことだったが、きっと食べきれないと思い、残りはジャムにして保存した。農業の収穫のおもしろさを知った1日だった。

2009年5月 3日 (日)

少し休みます

Dsc_9766_1 体調不良につき少し休みます。

2009年5月 2日 (土)

お葬式

Photo  同年代の友人1人が亡くなられた。5年ぐらい前に心臓バイパス手術をされていたが、元気そうだった。最近は会合なども欠席がちだったのであるが、ご子息の話によると、2月くらいから膵臓癌治療のため入院していたそうだ。ご家族の懸命の看病や病院での治療など、薬石功無く他界されたのは残念だ。生前には珍しいお酒の差し入れなどしていただき、気の優しい方だった。彼とは入社以来の付き合いで懇意にしていただいた。ご冥福をお祈りします。我々の仲間で退職してから亡くなられた方は3名となった。年老いてくると順番は無いと言いながらも、1人かけ、2人かけ、だんだんと淋しくなってくる。お互いに元気でありたいと思う今日この頃だ。

2009年5月 1日 (金)

例会に参加

P1070617  同窓会の例会に出かけるために電車に乗ると、久しぶりにSさんに出会った。彼はまだ働いていて元気そうだった。彼と同じ会社に勤めている先輩達の近況を尋ねると皆元気に働いているとのこと、結構なことだ。大阪に出るついでにパソコンショップをのぞいてプリンターのインクを購入する。そして例会の場所に行くと既に4,5人の人が来ていて宴会が始まっていた。4月の始めに開催された泊まりの同窓会の幹事に対し、ねぎらいの言葉があった。記念誌作成のMIさん、幹事のMさん、MAさんにお礼の品物を皆で考えたので受け取って欲しいとSUさんSAさんから提案があり皆賛同した。製作に関わった私としては、皆さんの喜ぶ姿が大変嬉しいので、それで十分だと断ったが、既に購入していて無駄になってはいけないと、快くいただくことにした。皆様の心遣いに感謝!感謝!
 今月で退任される幹事のMさんほんとに有り難うございました。これからもご協力よろしく・・・・新しい幹事のYAさんと一緒に1年間幹事をさせていただきますがよろしくお願いします。
 その後、つぎつぎと人が集まり、ダベリングは活発になってワイワイ、ガヤガヤ、食べて飲んで満足して別れた。