伊豆旅行 韮山反射炉・江川邸を経て沼津へ
伊豆洋蘭パークを出て、車で20分走り韮山の反射炉を見に行く。反射炉って何かなあと思いながら走る。入口に着くとドライバーさんが「少し待ってください。ボランティアガイドさんを頼んできますから」といってしばらく車の中で待つことに。やがてボランティアガイドさんが来て入場料100円を払って入園する。説明によると、反射炉とは、銑鉄を溶かして優良な鉄を生産するための炉で、銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要であるが、反射炉の場合、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっていて、そこに熱を反射させ、銑鉄に集中させることでその高温を実現する構造となっているそうだ。そこから、反射炉という名前がつけられた。
溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工された。近年の発掘調査では砲弾の鋳型などが発見されている。炉と煙突の部分を合わせた高さは約16m、当時の物が残る日本で唯一のものである。当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いていた、と説明があった。反射炉建設に至った経緯について、嘉永6年(1853)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされ、江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を許可する。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍でしたが、蘭書の記述のみを頼りに大規模な反射炉を建造することは非常に困難が伴ったそうだ。当初、建設予定地は下田港に近い加茂郡本郷村とされ、その年の12月には基礎工事が始められた。しかし、翌、安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという事件がおる。そこで、急遽、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村に移転することになったそうだ。
しかし安政2年(11855)正月、江川英龍(坦庵)は反射炉の竣工を見ることなく病死してしまう。後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請した結果、安政4年(1857)、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成した。完成した反射炉では、元治元年(1864)に使用が中止されるまでに、数多くの鉄製砲が鋳造された。これらの大砲は品川台場に28門配備されたそうだ。
見学を終えて土産物店に案内される。ここには反射炉地ビールがあるというので飲んでみるととても美味しかった。近くには茶摘み体験のできる製茶工場などもあり、大勢の人が来ていた。
反射炉を見学した後、江川家の邸宅を見学する。小学生なども見学に訪れていた。江川家は重要文化財に指定されている。主屋(552㎡)は高さ12mで大屋根を支える豪壮な架構で有名で、土間からその構造を見ることができた。枡形、役所跡、生き柱、西蔵、南米倉・北米倉、などを見学する。表にはパン祖の碑等もあった。
土産物屋でパン祖のパンを購入する。今日でいう乾パンのような保存性の高いパンだった。(家ではスープに入れて食べた。)見学を終えて沼津に向かう。


















やがて浄蓮の滝の駐車場につく。ここに来るのも新婚旅行の時以来だ。その時の様子などを思い出しながら徒歩で急な坂道を降りていく。































































