熊野古道大辺路 -7- 浜の宮から速玉大社・本宮大社へフォトストーリー
熊野古道の浜の宮王子からへ速玉大社・本宮大社へウオーキングしたとき写真をフォトストーリーにしたのでアップする。
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浜王子跡から、新宮市内に入り徐福公園に向かう。この公園で昼食になった。極彩色の中国風楼の中が公園となっていた。昼食後語り部さんから徐福と公園について説明があった。徐福は今から2200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて3000人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられている。一行は、この地に自生する「天台烏薬」という薬木を発見したが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたと言われている。
徐福の渡海は、中国の有名な歴史書である『史記』にも記されているそうだ。1982年、中国の江蘇省連雲港市かん楡(かんゆい)県において徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになった。徐福村には祠も再建され、その内部には東方を向いた、りりしい徐福の座像がまつられているそうである。
一方、始皇帝が不老不死の霊薬を探しだそうと躍起になり、各地をたずねたあげく、方士徐福に出会ったのが徐郷県(現・山東省龍口市)といわれている。現中国においても徐福ゆかりの地がクローズアップされており、その研究も活発に行われているようだ。日本でも徐福渡来の伝承地がいくつかあり、古くから地域伝承を育み、様々な文化が形づくられてきた。(写真は天台烏薬の木)特に熊野地域には徐福渡来の地として数々の伝承・史跡が残り、鎌倉時代には文献に出てくる。新宮駅から東にわずか100mのところに「徐福の墓」があり、蓬莱山南麓の阿須賀神社には「徐福の宮」もある。徐福公園は平成6年8月、「徐福の墓」を中心に極彩色豊かな中国風楼門を配した整備を行い、オープンした。
公園を出て、那智阿須賀神社に向かう。 この神社は、熊野三山の信仰とも深い関わりをもつ古社で、同市にそびえる神倉山に降臨した熊野三所大神はそれぞれ熊野三山に遷座し、阿須賀神社には熊野三所大神と関連の深く、熊野速玉大社の境外摂社となったそうである。阿須賀神社は元々、社殿裏にそびえる蓬莱山を御神体とする自然物信仰の祭祀施設だったと考えられている。境内には那智阿須賀王子跡、弥生式竪穴住居、徐福の宮などもあった。
阿須賀神社を出て熊野川の堤には、徐福上陸の地の常夜灯もあった。語り部さんは「この川の河口は太平洋に流れているので海水と真水の当たるところに砂の堤防ができているので見てください」というので見ると確かに堤防ができていて少しとぎれている。これが内海に注ぐ河口との違いだといっていた。川の対岸は三重県になるそうだ。
宿を7時50分に出て浜の宮王子に8時頃到着。早速ストレッチをして大狗子(おおくじ)峠へ向けて出発だ。
しばらくは国道を歩き、ナキワノ鼻(岬)の手前であぜ道を歩いていく。峠までの道は余り険しくはなく、15分程度上ると大狗子峠につく。峠は風通しが良く涼しい。峠を下りて交差する林道からの入口が急な下り坂になっている。20分ほど歩くと展望が開けた場所があり、景色を見てほっとする。語り部さんが「後10分も歩けば小狗子峠につくよ頑張ろう。」と声をかける。
小狗子峠を越えてすぐの所に鍛冶屋口茶屋跡があった。茶屋があったのだろうか古い石垣が残っている。やがて国道に出る。自動車が多く少し危険を感じた。左手にJR宇久井駅を見ながら国道を歩く。30分位行くと左側に佐野王子跡が見える。
佐野王子社の説明板には、
建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇に随行して、熊野参詣をした藤原定家は、日記に「この道また王子数多(あまた)御座す」と記して、この付近の王子社名を載せていません。承元四年(1210) 五月、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の参詣に随行した藤原頼資は、阿須賀・高蔵・佐野・一乃野の王子杜を日記に記録しており、このころ新宮~那智間に四王子社があったことがわかります。『紀伊続風土記」には、近世には那智山の境外末社となり、その後、社が廃絶して王子の祓所を佐野王子としています。ここにあった杜が、明治時代に若一王子神社となりましたが、神社合祀で天御中主神社に合祀され、現在は石碑が建つのみです。なお、熊野参静の折は、佐野の浜で拾った小石を衣の袖に入れ、那智山の社壇に奉納する習慣があったと伝えられています。
と書かれていた。
佐野王子から15分ぐらいでショッピングモールに到着する。ここのショッピングモールは規模が大きく和歌山県に人や三重県の人達が自動車で買い物に訪れるそうだ。駐車場のスペースも大きかった。ここでトイレ休憩を取る。再び国道に出て20ほど行くとJR三輪崎駅が左手に見える。このあたりから遠くの山の中腹に「神武天皇上陸地」と書かれた看板が出ていたが、語り部さんは定かではないと行っていた。ショッピングモールをでて30分、民家の中の細い道に入っていく。
ここから高野坂へ向かうのである。こちら側は高野坂の降り口だそうだ。金光大神休憩所で小休止を取りながらすすむ。途中にはシマヘビ屋、ムカデなどと出くわし、驚きながらすすんでいく。
木々の間からは王子が浜の風景を見ながら進む。馬頭観音像などもあった。高野坂降り口から約30分歩いて、高野坂の入口に到着する。ここにはトイレもある。
JRの線路下をくぐると王子が浜の雄大な海岸線が現れる。42号線に沿って新宮に向けて歩く。約20ほど歩くと集落の中に入る。
大門坂駐車場から浜の宮へ向かう。最初に、二の瀬橋を渡り、お杉社には15時50分に到着した。この社は天照大神と御子の忍穂耳尊(おしほみのみこと)と葺不合尊(ふきあえずのみこと)の三神が祭られていた。神話では天照大神から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を賜った話で知られる神々だ。九十九王子の一つで旧暦の9月7日にお杉屋を建て、御旅所として祀っていた。境内には天照大神がお姿を表されたという影向石もある。
おすぎ社の近くの市野々小学校の前を通って市野々王子に5、6分で着いた。天仁2年(1109)に熊野に参詣した藤原宗忠は、12月、浜の宮王子の後、那智鳥居政所を経てこの「一野王子社」に奉幣しているそうだ。明治時代に那智山の支配から離れ、王子神社となったそうだ。このあたりには米を貯蔵したといわれる御蔵の米倉などもあった。
10分くらい行くと、荷坂の五地蔵が祀られている。この地蔵は平宗清が石屋の弥陀六と名を変えて、一ノ谷の合戦でなくなった平敦盛を供養するために作ったと伝えられている。五地蔵を後にふだらく霊園の方に急な坂道を上っていく。途中には、樹齢800年の柿の古木があった。余り大きくはなかった。
そこを通り過ぎて石畳の急な登りの古道を行くと、やがて荷坂峠に到着。荷坂峠には尼将軍(頼朝の正室北条政子)供養塔があった。夫の源頼朝を失い、二男二女すべてを失った北条政子は、出家して尼さんになり、尼将軍といわれ、家族の菩提をとむらうために、建保6年(1218)に建立されたといわれている。尼将軍は高野山や熊野に何度かお参りした。曼荼羅の道の供養塔は、腰から上の病に霊験あらたかと、地元では伝えられている。
峠を過ぎると竹藪や杉林の中の下り道を降りていく。周囲には花生姜、ミツバチの巣などもあった。やがて長谷川にかかる小さな橋を渡ると、曼荼羅の道という道標があった。そこから少し広い道となり「那智天然温泉」の看板なども出ている道を那智川に沿ってしばらく歩くと、道標地蔵がある。
その地蔵から6分ぐらい行くと補陀洛山寺につく。ここは世界遺産にも登録され、南方に補陀洛浄土を目指し、渡海する上人達の出発点となっている。
補陀洛渡海とは、生きながらにして小さい舟に閉じ篭もり、観音浄土を目指すというものである。舟の中を覗いてみると人が1人やっと寝ることができる程度の広さだ。境内には渡海船や曼荼羅なども展示してあった。
その近くに浜の宮王子がある。熊野三所大神社、猪宮王子、錦浦王子とも呼ばれていた。中辺路、大辺路、伊勢路の分疑点となっており那智山参拝前の潮垢離を行って、身を清めていたそうだ。
ここにも樹齢800年の大楠の木があった。到着時刻は17時30分で、歩いた距離は8kmだった。ストレッチを済ませ、JR那智駅に行き、バスで勝浦の宿に向かう。
本来なら、那智駅の近くにある浜の宮王子から熊野那智大社に向かうのであるが、そのコースでは熊野那智大社に着く頃には那智大社が閉門して、参拝する事ができない。そこで、今回はコースを変更することになった。大阪駅を7時40分に出発して大門坂駐車場に到着したのは13時10分だ。早速ストレッチを開始、完了するとすぐ出発だ。
世界遺産の大門坂に向かう。新宮藩の関所跡、大阪屋旅館跡などを見ながら歩く。そして振ガ瀬橋を渡ると俗界から霊界へ入る。その境界なっている橋がこの橋だ。橋のたもとには大門坂茶屋がある。
しばらく歩くと樹齢800年の夫婦杉がある。このあたりからの大門坂はうっそうとした森の中の階段を登っていく。
庚申碑を過ぎ5分ほど行くと、多富気王子跡がある。県指定の文化財で建仁元年(1201年)後鳥羽上皇の熊野詣での時、藤原定家 の書いた「御幸記」に、熊野九十九王子の最終の王子社であることが記されている。又、ここから那智の大滝が拝めることから(両手を向けてあわせる王子)「手向け王子」 から転じて多富気王子と言われている。
近くには、樹齢800年の楠木の大木や一町石があった。20分位上っていくとあたりには花生姜の花が咲いていた。説明を聞きながら十一文関跡をみたり、那智の滝の遠景を見たり、修行僧や祭の話を聞きながら歩く。
そして、みたし茶屋跡の広場で曼荼羅の説明を聞きながら小休止だ。そこから10分で熊野那智大社の参道に入る。ここからも階段が続く。
20分くらいで入口のある鳥居に到着。少し上がっていくと、朱塗りの熊野那智大社の拝殿が有り、大勢の参拝客で賑わっていた。境内の外れからは、那智の集落の全貌が見渡せる眺望の良いところだ。ここで自由参拝だ。
30分後に青岸渡寺に向かう。何度も訪れているので参拝を終えて、三重塔と大滝を見ながら下山し那智の大滝に向かう。
森の中の下り道をてくてくと歩いて30分。大滝に着く。ここには飛瀧神社がある。何度来てこの景色を何度見ても心が洗われるような気がする。ここからは大門坂駐車場まで車で戻る。
熊野古道 大辺路の佐部・秀田地蔵からJR那智駅へ歩いたときの記録をフォトストーリーにしたのでアップする。
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熊野古道大辺路の古座から佐部・秀田地蔵へ歩いたときの記録をフォトストーリーにしたのでアップする。
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翌 日、宿を7時50分に出発。この日の予定は佐部・秀田(しゅんで)地蔵から峠を4つ越してJR那智までのウオークだ。8時30分に秀田(しゅんで)地蔵に到着する。ここで語り部さんと合流。秀田橋を渡り正法寺を過ぎてすぐ右に曲がる。
民家の前の道を行くと、急傾斜地崩壊危険区域の看板が出ているが、その手前で2、3段の階段を登り、八郎峠への道に入っていく。入口はわかりにくいが、語り部さんが案内してくれるので安心だ。そこからは急な上りの坂道が続く。朝まだ早いため満腹であり、足が重たい。
急な坂道はこたえる。ストックを出して使用することにした。途中には岩場があり、語り部さんが「前日の雨で岩が濡れているので、くれぐれも滑らないように慎重に進んでください」と声をかける。森の中には山ツツジや三つ葉ツツジが花開き、木々の間からは遠くの山々が見え、疲れを癒してくれる。途中には段築などもある。小高いところへ来ると、誰かが「八郎峠に着いたのですか」と声をかける。
すると語り部さんは「まだですよ。これからもう少し登らないと・・・」という。皆かなり疲れているらしい。一歩一歩登って行き約1時間歩いてやっと八郎峠にたどり着いた。峠の切り割りでは涼しい風が吹いていて、気持ちが良かった。この峠は串本町と那智勝浦町の境界にもなっている。峠には地蔵さんも祀られている。
しばらく休憩して今度は急な下り坂を下りていく。30分位ウバメガシの林や杉林の中を歩いて森を抜け、子抱地蔵に到着する。この地蔵さんは赤い前掛けをつけていて前から見ると何の変哲もない地蔵さんだ。語り部さんが前掛けを外すと地蔵さんの前には赤ちゃんが抱かれていた。だから子抱地蔵と呼ばれているのだと思った。
近くには炭焼き小屋もあり、備長炭を焼いていた。子抱地蔵から5分ぐらい行くと大きな椿の木が右側に見える。この辺りの集落は太田地区といい、田んぼがあるが、田のつく地区は田川地区の2箇所でこの2つの地区は田んぼがあるそうだ。この太田地区でも田植えの準備は始まっていた。しばらくはのどかな田んぼの中を歩き、県道に出ると右折する。
向かい側には大泰寺への参道が見える。今回は大泰寺を訪問しなかった。前を通って右側に諏訪神社を見ながら太田川にかかる大宮橋を渡る。太田川は大雪取山の麓、色川から流れ下里から海へ出る川だ。川面の色はエメラルド色で美しかった。市屋峠の入口に市屋休憩所があり、ここで昼食にする。この場所はレンゲ、キツネノボタン、トキワハゼなどの草花が咲き乱れていて、楽しく食事ができた。
この休憩所には動物のオブジェと市屋峠への案内板がある。いよいよ出発峠までは15分位の登り道だった。
大阪天王寺を8時30分に出発して、阪和道を走り田辺ICで降りて、国道42号線を南下して古座に着いたのは13時であった。ここから語り部さんと合流してウオーキングを開始する。この日の予定は古座→虫喰岩→地蔵峠→佐部秀田地蔵のコースだ。最初に鯨漁について、今は太地が盛んになり有名になったが、昔は古座の町が鯨漁の盛んな港であったこと、そのため鯨を捕獲した後の処理する場所などがあり、町の人達が大勢従事していたとの話があった。
その他にも古座川河内祭が有名だそうだ。源平合戦で勝利した熊野水軍の凱旋の様子を今に残す河内祭は国指定の無形民俗文化財になっている。写真などを示して説明された。その後、昭和通りを通る。道幅は2m位だった。土地が狭いために道幅も狭いらしい。1mくらいの通りは「小小路」と言われ家と家の軒がくっつきそうなところもあった。
すぐ傍の細い道を上ると、「古座一里塚跡の石仏」があり、縁起の看板が出ていた。近くには古座神社もあり、拝殿には子供の手形の絵馬が奉納されていた。近くには、かつて飲み水などに利用されていたといわれる湧き水があったが、ためている場所はかなり汚れていた。細い道を抜けると急な階段があり、古城山清源寺へと続くが、今回は反対側に出る。そこは古座川で前回の最終到着地点の場所がよく見える渡し場跡であった。
元に戻り、札の辻を左に行くと善照寺という寺がある。その山門は鼓楼となっていて古めかしく感じる。本堂の彫刻には像の彫り物があった。寺を後にして再び川に出る。
堤防沿いには栴檀(センダン)の古木が植えられている。昔ここに停泊する船がこの栴檀の木に、もやい綱を縛ったとのことであった。栴檀の木は苔むしていた。
互盟社の前を通って神戸(こうど)神社に行く。この神社は裏山や樹木がご神体となっていて樹齢千年以上の木がある。更にすすむと池野山川の稚児橋につく。この橋の手前を少し右に行くと渡船碑があり碑にはもやい綱をかけた穴が空いていた。橋を渡ると左手にこの地方の大金持ちの「佐藤長兵衛」の屋敷があった。石垣を並べた一辺が100mくらいありそうだった。現在はその一部が古座町役場として利用されている。役場を後に県道に沿って池野山川の上流へ歩く。
熊野街道の泉佐野妙光寺からJR山中渓へウオーキングしたときの記録をフォトストーリーにしたのでアップする。約9分と少し長いので、時間のある方はどうぞ・・・・
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昨年の10月に熊野街道の岸和田界隈を歩いてから久しぶりに泉州路を歩く。南海電車の泉佐野駅を9時50分に出発。徒歩 5分、商店街を抜けると右側に妙光寺という寺があり参詣する。この寺は、1358年(延文3)大覚大僧正妙実上人が開基した。庭が大変美しいお寺だ。
国道26号線の市場北の交差点を渡り、熊野街道に出る。突き当たりを右に曲がり進む。道標を確認しながら15分ほど歩くと、関空線との交差点到着する。更に進むとやがて古い大きな家が並ぶ街並みの街道に入る。長南中学校を過ぎて地図を見ながら歩く。
塙(ばん)団右衛門直之の墓前の籾井(かすい)王子があると思って探すが見あたらない。もう少し先かと思いながら進むがやはりない。元に道を戻り、自動車店で聞くと、裏にあると教えてくれた。この建物の裏に王子跡の碑が立っている。個人の住宅の庭であり、ブロック塀の内側にあった。紀伊国以外の唯一の五体王子社である。後鳥羽上皇は、ここで御奉幣、里神楽を奉納し、白拍子が舞い、相撲3番を催したといわれている。
その後、奥家住宅に行く。奥家は南北朝時代から和泉国の有力な国人として江戸時代は籾井の庄屋を代々勤めた。建築年代は慶長・元和のころ(17世紀はじめ)、と推定される。建築当初は、ダイドコが一間も土間部分に突き出す「食い違い」の四室とさらに奥に1室を有する6間取りで、この種の型としては泉南地方ではもっとも古くて大きい建物てである。柱・鴨居・梁は太くて大きく、野材の用い方も古式である。後に東側に座敷4室と玄関をつけ、土間からは裏へ対屋を出してカマヤとし、桁行13間半、奥行きは土間部分で7間余りもある大規模な民家である。 国の指定は、上屋・長屋門・土蔵・土塀で、昭和45・6年に半解体修理が行われた。隣には淡輪六兵衛の宝筺印塔が有り、それを見ながら進む。
樫井川にかかる明治大橋の手前には、樫井古戦場碑がある。大坂夏の陣の緒戦が、慶長20(1615)年4月29日に、樫井川一帯で行われた。信達宿に陣取る徳川方の紀伊和歌山城主浅野長晟と、大坂城から南下してきた豊臣方の塙団右衛門などが、この付近で戦った。
明治大橋、明治小橋を渡ると右手に史跡海会寺跡広場が有り、ここで小休止する。海会寺跡は発掘調査が行われ「法隆寺式伽藍配置」の寺院と、その周囲にあった豪族集落の構造が明らかになり、五重塔、金堂、講堂、回廊などの建物があり瓦、仏像を始め多種多様な遺物が出土している。
海会寺の前には、古代史博物館があったので入館する。館長さんの話などを聞き館内を見学する。話によると、大化の改新の直後、難波宮に遷都し、あらたな国づくりが始まった頃のこと。南海道のすぐそばに海会寺という立派な寺院が創建され、その後、9世紀に焼失し、もとの大伽藍として復興されることはなかったようだ。発掘調査が実施され、その成果から国史跡に指定され、出土品のうち約300点が国重要文化財に指定されています。現在、史跡海会寺跡広場として整備され、出土品は隣接する古代史博物館で展示されている。
海会寺跡の隣には一岡神社があり、スサノオノミコトが祀られている。江戸時代の書物『和泉名所図会』には「海会宮(別名祇園さん)」として有名で、さらにその昔、天正の兵火で焼けたが「海会寺」という寺があったと記されているそうだ。境内には、江戸時代の銘をもつ灯篭がいまもある。京都の祇園さんと同じく、疫神とされる牛頭天皇を丁寧に祀ることにより疫病や厄除けを願う神社だ。
熊野古道大辺路の串本から古座へ歩いたときの記録をフォトストーリーにしたのでアップする。
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熊野古道大辺路の串本から古座へ歩いたときの記録をフォトストーリーにしたのでアップする。
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熊野古道大辺路 田子の浦から串本へ歩いたときの記録をフォトストーリーにしたのでアップする。
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潮岬から串本港に移動し、ここでバスを降りて再びウオーキングを開始する。
串本港で語り部さんは、大島を見ながら話し始める。昔の写真(おそらく45年位前の写真だろう)を撮りだして同じ場所の今昔を比較しながら話し始める。「この前の海は、水上戦闘機が沢山止まっていた記憶がある。皆さんが立っているところは海だった。ここ串本は、飲み水がなかったため、余り拓けなかったが、古座川から水道水を引くことになってからは、海岸は埋め立てられて今のように賑わいを見せるようになった。」と話してくれる。その写真には、橋杭岩も写っていた。
右手に大島を見ながら、海岸線に沿って橋杭岩までウオーキングする。橋杭岩の手前にある無料休憩所(夏はシャワーなどの設備もある)で、橋杭岩を見ながら昼食をとる。
昼食後は橋杭岩のすぐそばまで行き、しばしの観光だ。干潮なのだろうか、こんなに近くまで行けるなんて思ってもみなかった。岩にはそれぞれ名前が付いている。カニのハサミのような形をした「ハサミ岩」お坊さんがお祈りをしているような形の「大オガミ岩」「小オガミ岩」などが有名だ。近くで見ると、それぞれの岩は大きなものだった。本州から大島まで点々と一列に並んでいる様は雄大である。しばらく傍でいろいろな岩を見た後、出発する。
橋杭岩観光は、たいてい横一直線に並んでいる姿を写真などで紹介されるが、今回は岩が一直線に並んでいる場所に行くという。橋杭岩の付け根にある少し高くなった神社の境内から橋杭岩を見る。とても珍しい景色だった。
神社を出て、海岸の方へ下りる所に弘法の湯という温泉があり、弘法大師が杖でつついたところ、温泉が湧いたとの言い伝えがあるそうだ。その前を下りていくと泉源があり、温泉が湧いていた。海岸の砂浜には、浜えんどうの花が咲き誇っている。
海岸に近い岩場には、ひじきが沢山付いていた。語り部さんいよると、このあたりでとれるヒジキは大変美味しく「姫ひじき」といわれ、市場でも有名で高価な素材であるらしい。時々無断で採取して、警察に捕まっているそうだ。
ホームセンターの当たりで国道に出る。いりでの坂と国道の交差点あたりに、澤信坊(たくしんぼう)の道標地蔵がある。地蔵には小さな小石が沢山備えられている。串本町に残る最も古い道標(道しるべ)である。浸食されて字が読みにくいが、「左 いそみち、右 わかやま」と書いてあった。
朝、5時50分に朝日が大島の先端当たりから登ると聞いていたのでその景色を見ようとホテルの庭に出て日の出を待つ。既に何人かの人も来ていた。空を見上げると雲が多い。朝日は本当に出るのかなと思いつつ待っていた。今日はだめかと諦めて帰ろうとしたとき、雲が切れて太陽が顔を出した。チャンスとばかりにシャッターを切る。
朝食を済ませ8時にホテルを出発、潮岬半島の駐車場へ向かう。ここでいつもの通りストレッチをする。この駐車場からは重ね山、小笠山などが見える。オオシマザクラは満開だった。ウオーキングルートは潮岬灯台と潮岬展望台などの約6kmである。
駐車場を出て、すぐ右側には、背の高いシイのみの林が連なっている。語り部さんによると、このあたりの林は風が強いので、木を切ることはしない。昔は木の実をとって食べたものだと言っていた。
南へ進み潮騒の森へという看板の所を左側に曲がる。この集落の各家には風が強いため生け垣を植えている家が多く、シイの木や、イソヒサカキ(このあたりでは自生している木)、槙などが混在して植えてあった。3月だというのに暖かいのだろうツバメが飛び交っている光景が見られた。昔はこの集落には水が無く各家々は樋からの雨水に頼って生活していて、雨水をためる設備があり天水と呼ばれていて、今でも防火用水として利用されているそうだ。
潮岬測候所の前を通る。以前はここで勤務して気象観測を行っていたが、今はデーターを無線で和歌山へ送れるため無人となっている。語り部さんの話を聞きながら高松寺に向かう。このお寺はこの集落でただ一つのお寺で、このあたりでは人がなくなった場合は草鞋を2足と杖を2本棺に入れるらしい。そのための草鞋と杖が奉納されていた。近くの小学校は潮岬飛行場があって格納庫があるとの説明を聞いた。この格納庫は歴史的価値があるため、保存しているらしい。
「本州最南端潮岬郵便局」の看板のある小さな郵便局の前を通り集落の小道を歩く。やがて潮岬神社の境内にはいる。うっそうとした林であり高塚の森といわれている。
先月に引き続いて梅田を7時40分に出発。難波、天王寺を経て阪和道に入り南部インターで高速と別れて一般道に入る。
道の駅「志原海岸」で早めの昼食をすませ、42号線を走り、田子の浦にあるシーサイドサンワの駐車場で下車。ここで語り部さんと合流する。目前の海には双島がある。ストレッチをすませて12:30出発だ。
すぐに国道を渡り海岸に出る。このあたりは岩がごつごつとしていて歩きにくい。海岸線はハマダイコンの花が満開だった。10分ほど歩くと砂浜に出る。
そこから国道に上がると、このあたりの出身である一路の歌碑がある。近くには徳本上人名号碑や子安地蔵などもあった。国道には横断歩道はなかったが車に注意しながら渡ると、そこには徳大明神社の赤い鳥居が見え、中には入ってお参りする。
その後しばらく国道に沿って歩く。20分位でのう凪のバス停に行き着く。前に広がる港に停泊している漁船は、ケンケン船と呼ばれケンケンと呼ばれる疑似餌を使用してのかつお漁の発祥地だとの説明があった。
田並公民館の前を通って山道に入る。しばらく行くと墓碑がありその横には、涅槃地蔵があった。その前を通って田並の馬ころび坂へ向かう。
山道は足元が悪い。石畳の道を上っていくと峠に出る。
そこには境界標柱と説明板があった。説明板によると田並と有田の境界線を示すもので、昔は境界線をめぐって紛争が繰り返されたと言われている。そのたび毎に標柱も移動されたらしい。昔の出来事に思いをはせながら進む。今は埋め立てられいるが昔は「馬転び」といわれるほどの急な坂だったらしい。
5分ほど歩くと立江地蔵に出る。この地蔵は穴蔵のような場所にあり中がよく見えなかった。
木の階段を下って、標識に従って、右の方の小道を上っていくと高場平見の展望所に到着する。ここからは稲村崎や、潮岬などが一望でき景色の良いところだ。景色に堪能して元の道まで戻る。道端にはツツジが可憐な花をつけていた。海岸の岩は薄い板を何枚も重ねた様な形状をしていて面白いと思った。国道に沿って歩く。
JR紀伊有田駅を左側に見ながらガソリンスタンドの前を過ぎると徳本上人六字名号碑がある。この碑は昭和21年の南海道地震の時に倒れ、六文字目の仏の字が半分以上無くなっていた。
見老津から田子の浦へウオーキングしたときの記録をフォトストーリーでアップする。
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周参見から見老津へオーキングしたときの記録をフォトストーリーでアップする。
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今日は見老津から田子の浦ドライブインまでの16kmを歩く。予定では約6時間のウオーキングである。
6:50が日の出だと聞いていたので、早く起きて大島から登ってくる日の出を見ることにする。橋杭岩は逆光のため明るく見えない。やがて大島から太陽が上がってくる。感動的な朝日だ。8:00にホテルを出発して、前日の到着地点の見老津へ向かう。約45分走って駅に着き、ストレッチを開始、いよいよ出発だ。
JR見老津駅を9時に出発し、国道を南下する。しばらく国道を歩き、並行している旧道に入り、国道に出る。国道の10mほど手前の左側坂道に「坂の地蔵」がある。お参りして国道に出る。見老津小学校の中を通り、桜を見る。暖かいせいだろうか花は7分咲ぐらいだった。
学校を後にして、日本童謡の園に向かう。語り部さんの話によると、「このあたりには多くの地蔵尊が有り、地域の人々は信仰心が篤くて、地蔵さんの花が枯れたことがないほど良くお参りをしている徳のある方が多い」と言っていた。1.5Km位南下すると、三叉路があり、日本童謡の園の大きな看板が出ている。小休止のために立ち寄る。公園の中には、「まりと殿様」「お花がわらった」等の像が有り近くを通ると歌が流れていた。園内には「エビとカニの水族館」もあるが、国道から離れているので人はすくないそうだ。
童謡公園入口を出てすぐ右へ曲がり集落の中を通り、橋の手前左側の細い坂を上り、墓地内を抜けて下り、江須之川地区の海岸に出る。港には江須の川生活改善センターがあり、このセンターはこの地域の人達が私財を出して建てた建物で、お総菜発祥の地といわれ、全国の小売市場にお総菜屋を出しているそうだ。最近は大手メーカーにおされ経営が芳しくないそうだ。
左折してカーブ手前の左の石段を上ると、松の内地蔵がお堂の中に安置されている。さらに海岸線を進み国道に出る。国道を左へ入り江住小学校の校庭を横切る。校庭にはいると校舎の前には二宮金次郎の銅像が建っていた。最近では珍しい。その他にもすさみ町指定文化財の「城 桂谷先生之碑」があった。語り部さん話によると、「城先生は熊野私学校の創立者で江住の自宅に学校を創立。紀南地方最初の中等学校だったそうだ。県立移管のため奔走したが実現せず最後には里野海岸に投身した。桂谷の死によって学校は閉校したが門下生の多くは郷土の発展に大いに貢献した。」とのことであった。学校を抜けると長い階段を下りていく。この階段は「○○待ち坂」と言われているそうだ。昔この町の庄屋が殿様をここで待ったが、遂に来なかったという言い伝えがあるそうだ。
畜類殺生供養塚、庚申塔を過ぎ、JR江住駅に到着。駅の前を通り江住橋手前を国道に出てしばらく歩き、周参見町里野の標識を過ぎてすぐに右の旧道を行く。町の中には高潮時の避難場所などがあった。このあたりは猿や鹿が出るらしく、畑には高さ2m位の網が張ってあった。細い坂道を下りると、里野の浜に出る。砂浜を少し歩いて誰もいない秋の海水浴場の見張り台で昼食をとる。
大阪駅7時40分に集合し、難波天王寺を経て、志原海岸に到着したのが11時頃だった。早めの昼食を済ませ11時半に再びバスに乗って、JR周参見駅に行く。ここでバスを降りてストレッチをして、ウオーキングの開始だ。今日の主なコースは馬転坂・タオ峠・和深川王子社・長井峠・見老津の約12kmだ。富田坂、仏坂、長井坂は3大難所である。そのうち富田坂と仏坂をクリヤーしてきて今回が最後の難所となる。参加者は22名だ。長井坂は、長い坂が続くことからつけられた名称で、大辺路街道の中でも特に古道の面影が色濃く残されている。ウバメガシに囲まれた林には往年の石畳や道標がひっそりとたたずみ、尾根では沖の黒島や枯木灘が眺望でき、その景観はまさに天下の絶景といえる。 途中、急な登り坂をのぼりきれば尾根沿いの平坦な道がはじまり、雄大に広がる枯木灘を望む、大辺路の魅力を満喫できるコースだ。
JR周参見駅を12時頃出発。42号線に出てすぐの所に「串の戸石碑群」がある。この石碑群は、尤廷玉の墓、不明の碑、徳本上人塔、正念元心居士、平運丸関係4碑、汽船和歌山丸遭難死者の碑など、9つの碑からなっていてそれぞれ供養されている。
語り部さんの話を聞きながら歩く。少し行くと近大水産研究所と書かれた大きな看板があるので、その前を通る。途中、道標があり馬転坂の方へ左折して古道の登りに入る。馬転坂入り口となる生コン工場のあたりには「馬転坂登口」のマップや「馬転坂」の看板がある。白鳥トンネルを高巻きする。ここの登りは急な階段で足元が悪かった。急な階段を登るので、横にあるロープを持ちながら登った。
15分ほど上ると平坦になり、木々の間を抜ける快適な道になる。 少し明るく感じたと思ったら、目の前に海がみえ、海岸線がみえてきた。造成されたまま放置されたところに出てくる。造成で古道は一部分断されているが、眺めの良いところだった。ここから眺めると、見渡す限り水平線が続いていて心も晴れやかになるようだ。景色を見ながら小休止する。造成地の端までいくと、本来の古道にもどり再び歩き始める。
この辺りの古道は、誰も歩かなくなってから草木に覆われていたらしいが、H16年3月に、地元の人たち8人で道を探し出したそうだ。下り坂には、道が崩れないように道の端に石垣が組まれているところがあり、語り部さんの話によると、ところ、どころに石垣があるが、この石垣は、明治の初期ごろに作られたのではないか?と言っていた。
5分ほど下ると、馬転坂展望所の案内板があり、左に向かう道がある。そちらに向かうと行き止まりになるが、本来の古道「馬転坂」の絶景が楽しめるので立ち寄る。この馬転坂展望所は、国道などの造成で今は寸断されているが、とても急な坂道があり、難所の一つだったそうだ。
現在の国道42号線が、はるか下に見えている。非常に急斜面の上になるので、あまり身をのりださないように・・・との注意を受け、慎重に景色を楽しんだ。展望所に入ってきた道を「馬転坂展望所」の案内板まで戻り、再び谷沿いの道を下っていく。5分ほどで旧国道だったという道に出てくるので、そのまま左に下って、バス停「西浜」の手前で、現在の国道42号線に合流する。そこで、国道42号と別れ、小さな川沿いに左へ入っていく。西の庚申さんをみながら、緩やかな上り坂を登る。少し歩くとつづら折りのうっそうとした植林地になる。右側には植林の間から、熊野古道の旧道が残っていた。この道の続きは車道をはさんで、左側の道に続いている。
熊野古道大辺路の安居の渡しから周参見王子社を経て、JR周参見までウオーキングしたときのフォトストーリーをアップする。
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前回の最終地点である安居の渡し場跡にバスで行く。ストレッチを済ませ、渡し舟に乗る。
「安居の渡し」は、熊野古道大辺路「富田坂」を下った「安居」の集落から「仏坂」へ、日置川を渡る渡し舟である。大辺路街道では唯一、舟でわたる熊野古道だ。安居の渡し保存会」では、2005年10月に、50年ぶりに「安居の渡し」を復活させた。渡し舟の復活のきっかけは、すさみ町の「かつら木材商店」さんから旧日置川町に舟を寄贈され、舟は全長7.5m、幅1.6mの美しい伝統の形をした川舟だ。
この舟を有効に利用し、熊野古道を歩く方に利用して頂こうと渡し舟を運用する体制を整え、「安居の渡し保存会」を結成し、予約に応じて交代で渡し舟の船頭を務めているそうである。渡る川は深さ5、6mであるが川底の石が透けて見えるぐらい澄んでいた。6人乗りなので何度かに分けて川を渡る。全員が渡り終えていよいよ仏坂に向かう。
下船した所からは、急なのぼりの階段が目の前に現れる。山の中に入るので、少し薄暗いが、かなり急なのぼり坂で、息が上がってくる。3大難所といわれるだけあって、 この坂の登りはきつかった。それぞれがムリをせずゆっくりとした足取りで登る。しばらくはうっそうとした杉林の中を急坂が続く。
杉林を登りつめると、和歌山から25里のところに「かつら松」とよばれる一里塚の松があった。
そこから少し歩を進めると仏坂茶屋跡に着く。この茶屋を営んでいた「茶屋」という屋号の家がすさみ町太間川にある。茶屋跡を過ぎると林道に出て、またすぐに山道へと入る。仏坂からの右手に日置川の河口付近が展望でき、ここで小休止し、語り部さんの話を聞く。しばらくなだらかな道が続き、ここで、世界遺産の熊野古道と別れ、迂回路に入る。
先日、熊野古道の白浜・草堂寺から富田坂の世界遺産を経由して安居の渡し場までウオーキングした。その時の写真をフォトストーリーにしたのでアップする。約8分と少し長いので時間のある方はどうぞ。
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12月にしては、暖かい日だった。前回草堂寺まで歩いたので、今回はその近くにバスが着く。そこで語り部と合流する。今回歩く富田坂は杖がないと、かなりしんどいらしい。語り部さんが竹の杖を人数分用意していた。ストックを持参している人もいた。
そして、大きな袋から地図と記念のタオルを出し、全員に配布する。今まで各所を歩いたが初めての経験だった。草堂寺の駐車場でストレッチをしていよいよ出発だ。
草堂寺の観音堂の横にある細い階段の道が「富田坂」への登り口だ。苔の生えた石の階段がいかにも、古道へ誘い込んでるような雰囲気を醸し出している。やがて両側は竹林になる。
語り部さんの話によると、「ここ富田坂は、岩手県遠野のオシラサマ、座敷わらし、カッパなどの民話に劣らない妖怪の民話が沢山ある。例えば、ダルとダリの話がある。ダルとダリには、むかし、人が行きだおれて死んだところで憑かれるという。ダリに憑かれて亡くなったところにはお地蔵さんがお祭りしてある。昔はそこを通るときは花を折って供えたという。そこは腹が減ったと思うだけでダリが憑くと言われている。
送り雀(おくりすずめ)は、このあたりに伝わる妖怪だそうだ。雀送り(すずめおくり)ともいう。夜、人が山道を歩いていると「チチチチ……」と鳴きながら飛んでくる。和歌山では妙法山によく現れたという。この鳴き声の後には狼もしくは妖怪・送り犬が現れるといい、道で転倒するとすぐにそれらに襲撃されてしまうため、送り雀の鳴き声を聞いた者は、転ばないよう足元に注意を払いつつ歩いたという。雀の名の通り、鳥の姿だとされるが、その姿を見た者は誰もいないそうだ。
カシャンボ・ガタロは春と夏は川や海にいるが、秋と冬には山にいて、人を騙したりする。騙されたらイタミであおってもらうとよい。河童のことを五来法師あるいはゴウライという。子供くらいの背丈で、お皿をかぶっている。人間の目には見えないが、犬には見えるという。人間を川に引き込み、尻を抜くという。人間のつばを嫌うので、つばを吐きかけておくと近づかないという。相撲が好きで、ひとがくすぐったがるところをくすぐって勝つという。炭焼きに行って小屋で粥を煮ていたら、夜ではないのに暗くなり、大きな影がさして金縛りにあった。しばらくして動けるようになり、外に出たが何もいなかった。ガシャンボの仕業だそうだ。
この竹藪には、竹タタキという妖怪がいて、人が夜ここを通るとカタカタと音がする振り返ってみるが、そこには何もいない。しばらく歩くと、又音がする。でも何もいない。という話だ。実際には竹タタキという妖怪ではなくて猪が歩いていたのではないかと言われている。」との説明があった。
竹林を抜けると一里松跡到着だ。かつては街道沿いに、一里ごとに松が植えられていたそうで「一里松」と呼ばれていた。ここにも一里松があったそうだが、松の木が枯れてしまい、一里松跡として残されている。
一里松跡を50m程進むと、馬谷城跡(うまんたに)(要害山城跡)を望むことができる。この城は戦国時代、安宅軍と富田軍の接点の砦であり、当時は常に数十頭の軍馬がこの城の麓に放牧されていたと伝えられる等、激しいたたかいの歴史が刻まれている。馬谷城は、山頂部に主郭を置き、西側に二の曲輪、東側に三の曲輪を配置した縄張りとなっている。遺構の見どころは、二の丸の北側から西側にかけて設けられている畝状竪堀群だ。横堀と連結した竪堀群の遺構は、深さも傾斜角もありなかなか見応えがある。また、三の曲輪西側にある尾根筋と城域を分ける二重堀切も一見の価値がある。 馬谷城は、境目の城として築かれたため、規模自体は小さな城だが、その防備は過剰なほどに施され、境目の緊張度の高さが伝わって来るようだ。途の説明があった。
ここから「七曲がり登り口」までは林道のゆるやかな登りとなる。「ここから世界遺産登録・・・」という案内看板がある。世界遺産はこの「七曲がり」から「安居辻松峠」までが登録されている。「七曲がり」の急な登り坂が続く。七曲がりだから、カーブが7つあるもんだと思い込んでいたが、歩きながら数えている間に、だんだん数がわからなくなってしまった。何度も小休止しながらゆっくりと登っていく。樹幹の間から眺望のいい場所に到着。白浜半島や富田平野も見渡せ、アドベンチャーワールドや白浜空港が見えた。再び次のポイントの峠の茶屋跡へ向けてウォーク開始する。少し登ったあとは、自然林のなだらかなアップダウンがつづく。 更に登っていく。途中、田辺湾を見渡せるスポットがあり、先ほどの景色が再び見えるが、標高が上がったため今度は俯瞰的だった。
坂を上りきり、なだらかな道が続いた後、峠茶屋跡に到着する。この場所は旅人が休憩場所とした峠茶屋跡である。この富田坂は文人の歌にも読まれているが大辺路街道の中でも屈指の難所で、旅する人にとってこの茶屋の存在はなくてはならないものであった。明治25年(1892)陸奥宗光が狩りをしたさいに休憩した記録も残っていて、大正8年(1919年)まで店を開いていたことが確認されている。
峠には「石臼」や「石仏」なども残っている。当時の人たちもこの茶屋跡で休息をとった。ここは丸太の皮をはいだベンチのようなものや、木の切り株などがあり、昼食にはぴったり、食事休憩を取る。
熊野古道の大辺路を歩いたときの写真をフォトストーリーにした。10分27秒と長いので、時間に余裕のある方はご笑覧下さい。なお、詳細は、
こちらに書いています。
熊野古道も京都路・大阪路・紀伊路・中辺路と歩いてきたが、今回から大辺路(134km)を7回に分けてウオーキングしようと思って計画。いよいよその出発の日が来た。第1回目は和歌山県田辺市の闘鷄神社から白浜の草堂寺への16kmを歩く。今回はその様子を記したい。
今回はF添乗員、Kボランティアガイドにルートを案内していただく。ガイドの話によると「昔の熊野詣では、参るときは一刻も早く参りたいので、中辺路ルートや潮見峠越えなどをして参詣した。
当時の武士・町人、文人・画家は、熊野大社へ参詣後の帰りに大辺路を通ったそうである。このルートには難所が3箇所(富田坂・仏坂・長井坂)がある。普段余り人も入らないので自然が残っているのでお楽しみに!」との話に期待に胸を膨らませた。
田辺の闘鷄神社が今回の出発点だ。大阪を7時40分に出て、10:20頃に闘鷄神社に到着する。
まず最初に拝殿に昇殿してこれからの旅の安全を参加者全員でお祓いを受け祈願する。その後、神主さんが神社のいわれなどを説明してくれた。話によると、闘鷄神社は、通称「権現さん」と呼ばれ、御祭神の中には、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)も勧請(かんじょう)されている。熊野権現の三山御参詣に替えるという三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を負っていた。熊野本宮大社が川の増水で流失する以前の社殿の形を再現しているそうだ。
壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社である。闘鷄神社の名の由来は、平家物語壇ノ浦合戦の故事によるもので、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増(たんぞう)が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによるもの。境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶像がある。神官の話では、闘鷄神社は勝負の神様としても御利益があるともいわれていて参詣する人が絶えないそうだ。私も安全のお札をいただいたが、更に勝運御守をいただいた。
11時15分神社を出発。県道31号線を白浜方面に向かう。紀伊新庄駅を過ぎ名喜里の交差点を左折、名喜里川沿いに歩き、JA紀南の手前の小橋を渡る。橋のたもとに南海大地震潮位跡碑がある。
しばらく集落内を歩くと左側に大潟神社の鳥居が見え、大潟神社に到着する。ここで、前もって予約をしていた弁当屋さんが昼食の弁当を運んでくれた。思い思いの場所を選んで昼食だ。本殿に行く階段の左手に「安政津波の碑」があり当時の様子が偲ばれる。
大潟神社は新庄村が皇紀2600年を記念して、昭和14年に現在の位置に宮居を造営昭和16年に遷宮したその後地滑り対策の工事を実施。平成10年9月の台風によって壊滅的な災禍を被った平成14年に再度復興したとかかれていた。食事を終えて出発する。
先日、熊野街道の泉井上神社から岸和田までウオーキングしたときの写真記録をフォトストーリーにしたのでアップする。
詳細は熊野街道 泉井上神社から岸和田土生へ。
5月28日に歩いてから、ずいぶんと日数が立っている。いつも同行していたAさんが、仕事をするようになったことで、誘うのを遠慮していたこと。風邪引きで体調を壊していること等で、次の工程にすすめなかった。しかし、彼から「次の工程にすすめるで」との連絡があり、行くことにした。
JR天王寺駅で待ち合わせ。阪和線に乗って、和泉府中で下車する。駅の東側に出て、アーケードのない方の商店街を東に行き、約700m位進むと、左手に泉井上神社がある。この神社の本殿は重要文化財に指定されている。境内には石造板状塔婆がある。石造板状塔場は大阪府の指定文化財となっている。左岸性の板石で造られた塔婆で一般的には、板碑と呼ばれ供養追善のために建てられたものである。上部の梵字はバク(釈迦)マン(文殊菩薩)アン(普賢菩薩)の釈迦三尊種子を表しているそうだ。しかし文字はほとんど消えており判読しずらい。わずかに正平3年5月(1348)の年号は読め南北朝時代のものであることがわかる。元は神社南方の和泉寺跡にあったもが、昭和7頃、現在地に移設された。
神社を出て左折し、300m程行き、右折して街道すじに入る。街道筋には古い街並みが残っていて、それぞれの家が大きい。
700mほど南へ進むと「井ノ口王子跡」へ到着する。この王子跡は妙福寺の前にあり、子宝地蔵と並んでいる。現在は泉井上神社に熊野社として祀られている。槇尾川にかかる柳田橋を渡り、街道を少し外れて寄り道することに。
和気町の信号を右に入り南へ500m進むと小栗街道の説明板があり、松尾川緑道として整備され公園となっている。公園の中を進み再び街道に戻る。街道は府道30号線になっている。道幅が狭いが自動車は結構多い。車に気をつけながらすすむ。そして岸和田市に入る。
「熊野古道で石像の首が切断され行方不明。」というニュースがあった。概要は、世界遺産に登録されている熊野古道の和歌山県田辺市中辺路町近露で、同市指定文化財の石像「牛馬童子」の首から上がなくなっているのを、18日夕に通りかかった人が見つけ、同市に届け出た。石像の頭部は行方不明で、誰かが切断して頭部を持ち去ったとみられる。という内容だ。
昨年の2月に熊野古道を歩いたときの事を思い出す。 牛馬童子は杉林の中にあって、熊野古道を楽しんでいる人々にとってかけがいのない童子だけに、憤りを感じてしまう。![]()
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先日あった大阪南の水掛不動さんの首が亡くなったことも、今回のように童子の首が亡くなったことも、世間の人達が楽しんでいるのに、自分一人が楽しめばよいと思っているのだろうか。何とも情けなく思う今日この頃だ。![]()
イタズラをした犯人は、早く自首してわびて欲しいものだ。![]()
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熊野街道の石津神社から泉井上神社へ歩いたときの記録です。
詳しくはこちらへ
新今宮から1輌編成の阪堺電車に乗って石津まで行く。電車は結構混んでいた。前回の終着点石津神社から歩く。ここで方角が判らなくなり、少し迷う。道がずれていたのだ。あちらこちらを歩き、やっと正規の道を見つける。やれやれ、最初からつまずくとは、先が思いやられる。
気を取り直して歩き始める。しばらく行くと熊野街道の新しい道標が見つかり、この道が正しいとの確認がとれ安心して歩く。石津川にかかった橋は戎橋だった。心斎橋筋の道頓堀川にかかった橋も確か戎橋ではなかったと思いながら通過する。馬場記念病院の前は5差路になっていて判りずらい。病院を右手に見ながら南へ進む。右手の農園ではお年寄り達が大勢ナスやキュウリなどに水やりをしていた。おそらく貸し農園であろう。
このあたりは熊野街道と小栗街道が同じ道になっているようだ。「熊野街道(小栗街道)」の道標や、歴史の道「熊野街道」の標識が道路に埋められていてわかりやすい。古い町並みも少し残っていて、大きな屋敷がある。少し行くと大鳥大社の道路標識が見える。
大鳥神社の祭神は、日本武尊と大鳥連祖神の二柱で、和泉国一の宮にあたる延喜式名神大社であり、式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥浜神社・大鳥井瀬神社と合わせて大鳥五社明神と呼んでいる。
日本武尊が東国の蝦夷平定の折りに立ち寄って祈願。その日本武尊が死後、白鳥となって最後に留まったこの地で、白鳥を祀るため創建されたのが和泉の国一の宮・大鳥神社であるといわれる。防災祈雨の御祈願社一つである。文武の神として古来より武家の信仰が厚かった。境内には平清盛、重盛が熊野参詣の途中、都にて兵乱あるとの知らせを聞き帰る途中、大鳥大社に参拝し先勝を祈願した。このときに詠んだ和歌「かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ、大鳥の神」の歌碑もあった。
途中、鳳小学校の塀には創立120周年の記念壁画があり、祭で地車を引く様子が細かく描かれていた。
大社を出てJR鳳駅の北側で踏切を渡り、おおとり商店街にはいる。商店街は賑わっていた。200m位進んだところで左折し、警察署の横を通って、NTTのあたりに行く。ここには大鳥居新王子があるはずだ。藤原定家の熊野御幸記に大鳥居の新王子とあるが、場所は特定されておらず現在のNTT当たりでは無いかと、言われているので、そのあたりを探したが、碑は無かった。往時の熊野詣での人々は大鳥居新王子へ行く途中、大鳥大社に参拝したそうだ。
商店街に戻り、街道を歩く。商店街が終わると、府道30号線との交差点に入る府道と別れ、右側の細い道に入る。左側には鳳胃腸病院があり、その前の道を右側にはいり、等乃伎神社に立ち寄る。等乃伎神社は古事記にも記載されていて、古く先史時代の樹霊信仰と高安山から登る夏至の朝日を祭る弥生時代の農耕民族の太陽信仰の聖地であったとされている。
神社を出たところには、地車の保管庫があって、寄進された人々の銘が刻まれていた。途中の府道では警察官が20名くらい出ていて、何かを取り締まっていたので、尋ねる。シートベルトの装着違反を取り締まっているといっていた。このあたりの道路は、新しくできたのだろう幅広い道だが、車の数も少なく、がらんとしていた。泉北有料道路の下を通ると道幅が急に狭くなり、新興住宅が建ち並ぶ。道も地図に載っていなくて、迷った。住宅街を抜けて南へ行くと、聖神社の一の鳥居が見えてくる。
50m位行き、左手の路地を50m位入ると、そこに篠田王子があった。このあたりは古い街道筋の面影を残していて、篠田王子は信太王子とも称されている。
王子町を進むと右手に、「小栗地蔵」、八坂神社の横に「高札場跡」がある。この直ぐ道の向かいに、「小栗判官」が休んだという「笠掛松」、照手姫が腰掛けた「照手姫腰掛石」が保存されている。更に南へ進み住宅街を抜けると、放光池1号公園に到着この公園の斜め向かいに平松王子跡があった。
平松王子は、後鳥羽上皇がこの地で「平松はまた雲深く立ちにけり 明け行く鐘はなにはあたりか」と詠んだ。このあたりは小栗街道としても親しまれている。地の底から蘇生した小栗判官が土車に乗せられ熊野詣での人々に引かれ、湯の峰温泉で蘇生するという説話がある。
伯太高校の前を通り、古い町並みが残る小栗街道を30分くらい行くと和泉井上神社に到達する。
この神社は、国土守護神、殖産興業の神として信仰されている。境内の清水は神功皇后渡韓の途中、一夜にして湧出下ので霊泉と名付けられ国名の源となったと伝えられている。本殿は重要文化財に指定されている。境内には石造板状塔婆などもあった。
神社を後にJR和泉府中駅に向かい、帰宅した。
昨年、熊野古道の紀伊路、中辺路を完歩した。京都城南宮から大阪の八軒家浜・住吉大社までと、泉佐野から岸和田の間のウオークは完了しているが、その他の泉州路が一部残っているので、これを制覇したいと思い、今月からその部分のウオーキングを開始する。
朝は雨がパラパラしていたが9時頃から晴れるとの予報だったので、出発することにした。
南海電車で住吉大社まで行き、そこから地図を片手に歩く。できるだけ忠実に熊野街道を歩きたいと考えたが、折角歩くのだから、街道から外れても少し有名な箇所は立ち寄りたいと思っている。
住吉大社の東門を出て、一つめの信号を右折し、南へ下る。すぐ右手に「ちぎり地蔵尊」がある。この地蔵は、安産、水火安全、諸病消除等10項目の願い事が叶えられるとされ、十徳地蔵ともいわれ、当日もお参りしている人がいた。
個人で歩いているため、この道が熊野街道かどうか不安があったが、歩いているうちに熊野街道の道標が見つかり、道に埋められた熊野街道の説明板があったりして、安心できた。墨江小学校の前を通る。
津守王子(つもりおうじ)は、九十九王子の6番目。大阪市住吉区の墨江小学校にあったが、今は姿を留めていない。現在は住吉大社境内の摂社・新宮社に合祀されたとも、住吉区沢之町の止々呂岐比売神社(若松神社)に合祀されたともいわれている。
津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉祭氏族であり宮司家でもあった津守氏にちなんだものである。
元の道に戻り、更に南へ進むと大和川に突き当たる。少し西側に迂回して橋を渡り国道から火がして一筋目が熊野街道だ。このあたりは金属と扱う小さな工場が並んでいた。浅香山の駅の南側で踏切を渡り、浅香山病院の前を通る。400m位行くと、高い塀のある大阪刑務所に着くので、ここを右に曲がり50m位で「境王子」に着く。
境王子は、熊野街道沿いに設けられた九十九王子の一つで、窪津王子から数えて7番目にあたる。現在の堺市堺区三国ヶ丘町付近にあったと推定されている。この地域は、摂津、河内、和泉の境があった場所で、境王子の名はこれに由来する。王子社は後世堺市熊野神社に移り、その神社も菅原神社に合祀されたため、正確な場所は判らない。現在は王子ヶ飢公園に「境王子跡」の石碑が建っていた。
更に500m南下すると「方違神社」に着く。方違神社は、かっての摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の三国の境界に位置していた。そのため、「三国山」「三国の衢(ちまた)」「三国丘」とも称され、万葉集にも、「三国山 こずえに住まふ むささびの 鳥まつがごと われ待ち痩せむ」と詠われている。さらに、三国のいずれにも属さない場所、方位のない清い場所であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。ちなみに、”堺”という地名は”三国の境”から起こったとされている。
ちなみに、陰陽道で鬼が出入りするとされる不吉な方角を鬼門と呼んでいる。表鬼門は北東・裏鬼門は南西である。だが、この神社では鬼門を不吉とはみなさず、特に清浄を保つべき方位としているそうだ。
方違神社の裏門を出て、反正天皇陵の東側に沿って歩く。この道は私道なのだろうか、舗装されていなかった。そして陵墓の正面にいく。
反正(はんぜい)陵古墳(田出井山古墳)は、前方部を南に向けた前方後円墳だ。百舌鳥古墳群の中では北端にあり、現在は百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理してる。そのかたちや出土した埴輪から、5世紀後半頃に造られたと考えられているそうだ。陪塚と推定される古墳の存在や二重濠など、大型前方後円墳として不足のないすがたの古墳であるが、仁徳陵古墳(大仙古墳)や履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)などに比べ、その規模がかなり小さいことから反正天皇陵とすることに疑問とする意見も少なくないそうだ。
住宅街の細い道を行き、三国ヶ丘高校に沿って南下する。やがて仁徳天皇陵に着く。大きな看板が出ているが後円部で古墳の裏側に当たる。表側に廻るには1300m位歩くことになるが、濠に沿って表側に廻る。途中には万葉歌碑がありその説明板もあった。万葉歌碑には「ありつつも 君をば待たむ うち磨く 我が黒髪に 霜の置くまでは」(磐姫皇后)と書かれている。
古墳の正面に行くとボランティアガイドさんがいて、話を聞く。平日の見学者は少ないが土曜日曜等の休日には大勢の人が訪れそうだ。
仁徳天皇陵は3世紀から7世紀の間、王がなくなると土と石を高く盛った大きな古墳を作った。仁徳天皇陵は全長486m高さ35mの日本最大の古墳だ。前方後円墳で周囲に濠が3重に巡らされ、熊野古道はこの濠のまわりを通っていく。
古墳正面の古墳通りを西へ行き高速道路の手前で南下し、石津神社に到着する。この神社は日本最古の戎神の宮として人々の心のよりどころとして崇拝されている。
(下記にフォトストーリがあります。)
天候は快晴だが、朝の気温は6度、11月にしてはかなり冷えていた。
京都から淀川を下り、大阪天満橋の八軒家浜付近から陸路で熊野三山を目指す片道約15日の巡礼の道で、熊野詣では、公家から庶民まで盛んな信仰であった。今回はそのうち、南海の泉佐野から岸和田までの15kmを歩く。集合場所で、本日のマップをもらい、9時半頃出発だ。
スタート地点は泉佐野の篭池公園で、そこから妙光寺→佐野王子跡→奈加美神社→吉祥園寺→南近義神社→正福寺→福田公園→感田神社→寺内町の町並→蛸地蔵天性寺→本町だんじり小屋→旧五十一銀行跡→だんじり会館→岸和田城→五風荘→岸城神社をめぐって南海・岸和田駅に行くコースだ。コースの所々に熊野詣でのハッピを着たスタッフがいた。公園を出てすぐの所に妙光寺が有る。開創は南北朝時代の大覚大僧正によるもので日蓮宗の古刹である。寺宝に「傘の曼荼羅」があり毎年5月2日に開帳される。建物や庭が美しかった。
佐野王子跡 熊野街道の王子跡の一つで大阪では珍しく王子跡が残っている。1945年記念碑が建てられた。近くには奈加美神社もあり、本殿は華麗な色彩の三間社流構造だ。
吉祥園寺を左手に見ながら南近義(みなみこぎ)神社に向かう。この神社はもと吉野の丹生神社の分社で煮鵜神社と呼ばれていたが1909年社名が変更され現在に至っている。近義王子、鞍持王子も合祀されている。ここではスタンプラリーの用紙にスタンプを押す。
正福寺の門前を通り、途中丸山古墳を見て、福田公園に到着。ここでは熊野街道ギャラリーが開催されていた。大阪府の協力で「非常食の試食品」を配っていた。私達もそれを賞味する。非常食の内容は炊き込みご飯であった。米は小米のようであったが、味は悪くはなかった。
近くの池で魚をたくさん捕っているので声をかけた。「どんな魚ですか」「ヘラブナや」「食べるのですか」「いいや、釣り堀に持って行くんや」「写真撮っていいですか」「いいよ、けど顔は撮つさんといてや」と言って、網ですくった魚を見せてくれた。小さい魚は再放流し、大きな魚は釣り堀に販売するらしい。車に酸素ボンベと水槽を積んだ車が止まっていた。
福田公園を出発して、南海の貝塚駅付近を通過して感田神社に到着。この神社は貝塚寺内町の産土神で、毎年7月に行われる「太鼓台祭」有名だ。寺内町界隈は昔の面影がまだ残っていた。ゴミ箱などは戦後のコンクリート製で四角のものだった。ノスタルジックなものだったし町屋の看板なども琺瑯製の古めかしい物がかかっていた。
平安時代には、熊野詣では京都の城南宮から淀川を下り、大阪の八軒家浜で上陸し、徒歩で住吉大社へ行くのがルートらしいが、10月8日は、逆コースを歩いた。
今回、歩くコースは、住吉大社→阿部野神社→北畠顕家墓→阿倍王子神社→安倍晴明神社→堀越神社→四天王寺→上野王子跡→産湯稲荷神社→東高津神社→三光神社→玉造稲荷神社→難波宮跡→大阪城→八軒家浜の約16kmだ。
住吉大社で、受付をすませていよいよ出発。正面にある太鼓橋を渡り、拝殿にお参りして裏門から出る。住吉神社を出てすぐの町中では、醤油屋であろうか、古風な看板と醤油樽が表にあり、常夜灯のような灯篭が屋根にある不思議な店を見つけた。十三仏を祀っている宝泉寺を見ながら歩く。南海電車高野線の東住吉駅の近くで踏切を渡り帝塚山の町中をしばらく歩くと万代池に出る。この公園では何人かの人達がジョギングをしていた。阪堺電車が走っている軌道を1kmほど北の方に歩くと阿部野神社に着く。
阿部野神社は北畠顕家公を祀っている。明治15年1月阿部野神社として創立、同23年3月鎮座祭が斎行され、別格官幣社に列せられた。現社殿は昭和43年に再建されたものである。
近くには安倍晴明神社もあった。安倍晴明は陰陽師で、城南宮での出立ち式にも出ていて、旅の出発日時を占いにより決めていたそうだ。その安倍晴明を祀っている神社だそうだ。
安倍晴明の出身地については、大きく分けて 大阪説、 讃岐説、 茨城説があり、最も有力なのは、大阪説だそうだ。
『葛乃葉(くずのは)伝説』によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされている。
以下、引用文である。
「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。
その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。」
狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになる。晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っています。安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されている。
JR環状線の高架橋を越えて、動物園の前を北へ進む。
11時から四天王寺にて「平安女人衣装行列」が出迎えるというので小雨の中を急いで歩く。何とか時間に間に合い出迎えを受けた。
お参りをしていると、7年ほど前に勤めていた会社の上司とばったりと出会う。「お久しぶりです。お元気ですか。」世間は狭いものだ。時間の壁、地域の壁を越えても出会うものだ。不思議なものだ。
四天王寺は、今から1400年以上も前の推古天皇元年(593年)に建立されたそうだ。 ここには熊野参詣の名残である「熊野権現礼拝石」や伊勢参りの「伊勢神宮遙拝石」等があり当時を思い出させる。
食事の時間になり、どこかで食べようと店を探すが、祭日でもあり何処の店も閉まっていた。食べるのを止めてひたすら次の目的地に向かう。
四天王寺を後に更に北に行く。上宮之跡を通り落語などで有名な高津神社を後にして、産湯稲荷神社につく。さすが稲荷神社だ。赤い幟旗がたくさん飾ってあった。
神社を後に三光神社に向かう。この神社の横には真田の抜け穴が有り有名だ。大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられている。隣には幸村の像もあった。三光神社を後に伊勢参詣の出発地点の玉造稲荷神社、難波宮跡、大阪城を経てゴールの八軒家浜に着いた。
熊野古道 切目王子から三鍋王子へウオーキングしたときの記録をフォトストーリーにした。
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海南の藤代神社から歩いてきた熊野古道ウオーキング゙もいよいよ大詰めを向かえる。朝から曇っていて涼しくて、気温もちょうど良い。先月の終点の切目王子から歩き始める。語り部さんはいつもの吉中さんだ。
JR切目駅の近くにある光明寺で説明を聞く。この寺には徳本上人の立像と、巨大なソテツの木がある、温暖な気候のためかこの辺りからソテツの木を見ることが多い。
中山王子・足の宮への道標があり、道標に従って歩く。若宮社遺跡の前を通り、登り坂を登っていく。中山王子・足の宮に到着。
ここでは毎年10月1日にしめ縄を新しく作り替えるそうで、集落の人達が集まってしめ縄を製作していた。
の王子社の隣に「足の宮」と呼ばれる小社があり、昔足を痛めて亡くなった山伏を葬った場所から湧いたという石が祀られて傍らには沢山の靴や草履が奉納されていた。
王子社の前には、室町期の宝篋印塔があり、古道に向かって並んでいた。この辺りから岩代の徳本上人名号碑までは古道の雰囲気が残っている。榎木峠からは印南から御坊にかけての太平洋の景色が美しい。彼岸花や鶏頭の花が咲いていた。
庚申さんを過ぎる頃には梅工場があちらこちらにあった。さすがに梅の産地だ。そして光照寺の隣には「有間皇子の万葉歌碑」がある。更に南下すると「有間皇子結び松の祈念碑」があり、説明を聞く。
太平洋や花を作っているビニールハウス、温室などを見ながらしばらく行くと岩代王子社跡に行き着く。
ここは1083年の記録に登場する古い王子社で、社殿の板を削り御幸に参加した人の名や人数を書き込み打ち付けたされる王子社でもある。松原の中にあり、潮騒が響いている。JR岩代駅で昼食を取る。
昼食後は梅畑の中の小道を歩く。腹ごなしにちょうど良い。
やがて道は千里浜の砂浜に入る。ここで語り部さんは「次の千里王子では貝殻を供える風習があるので、この浜で拾って下さい。」と皆に知らせる。貝殻を拾いながら波打ち際を約200m位歩く。この浜はアカウミガメの産卵地でもあり、和歌山県の指定文化財となっていた。
この浜で、花山法王は病に伏して、「旅の空 夜半のけむりと のぼりをば 蜑(あま)の藻汐 火たくかとや見む」と詠んだそうだ。実際に千里浜の南端部の大目崎泊遺跡からは弥生期から平安期にかけての製塩土器や炉が発掘されているそうですので、法王はここで実際に藻汐を炊く煙を見たのだろう。
千里王子跡は花山法王など歴代の貴族が参詣した記録が残る王子跡で、浜の貝を供える風習から貝王子との別名があったそうだ。
王子跡を出るとすぐに千里観音に向かう。近西国33番札所の一つで厄除け観音として霊験あらたかな観音さん、浜からの参道には33体の観音が祀られている。
近西国とは、和歌山県田辺市(19)、西牟婁郡白浜町(5)、上富田町(6)、日高郡みなべ町(3)の1市3町にまたがり江戸期(慶長10年)に海蔵寺の僧、天叔が霊場を定めた。一時期衰退したが関係者の篤い信仰と尽力により復活、現在も多くの人々がお参りしている。
更に梅畑の中を登ると南部峠の石仏が有り、熊野古道の要地で、峠を往来する人々はこの地蔵にお祈りを捧げ、骨つぎに霊験あらたかであると伝えられいた。
この地蔵堂前の道も古くからある主要街道であったようで、趣のある道をくだり南部に向かう。梅干し会館で梅干しの製造工程を見学。見学を終えて南部大橋、古川橋を渡り、大きな銀杏の木がある丹川地蔵堂に到着する。
ここの銀杏の木は、県指定天然記念物で、幹周は胸高で4.3mで、樹齢300年の巨木だった。
お参りを済ませて数百m行くと三鍋王子跡につく。アアやっとたどり着いたという感じだ。
思い起こせば平成18年9月21日に三鍋王子を出発して、ちょうど1年ぶりに再び三鍋王子に足を運ぶ。歩いた距離は合計約163kmであった。これから中辺路に挑戦する方も多く、名残を惜しんで別れた。
この日でお別れの月光仮面さん、ハリマ王さん、美容師さん有り難うございました。語り部、添乗員の皆様有り難うございました。
京都の城南宮にて出立式を済ませ熊野神社までウオーキングしたときのフォトストーリーです。詳しくはこちらへ
昨日友人から「明日の熊野街道ウオーキング参加するの?」とメールが入り、「行きます。待ち合わせは京橋駅で・・・」と回答した。しかし昨日から、右の奥歯が腫れていて、歯が痛い。肩も凝っていて、気分は余り優れていなかった。妻からも「体調が余り悪いようだったら、リタイヤして帰ってくる勇気を持って出かければ・・・」と言われて家を出た。去年から楽しみにしていたウオーキングだ。少し無理をして出かけた。
今日のルートは京都の城南宮を出発して、鴨川沿いを北へ→勧進橋→東福寺→今熊野観音寺→新熊野神社(いまくまのじんじゃ)→新日吉神宮(いまひえじんぐう)→丸山公園→南禅寺→熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)→聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)→熊野神社→京阪丸太町の16kmだ。
熊野参詣は、平安時代、山、森、木々に神々が宿るとされた熊野に上皇や貴族が参詣した。室町時代以降は「蟻の熊野詣」とよばれて、一般庶民も熊野三山へ参詣に訪れた。人々は傷ついた心を癒すために京都から1ヶ月の道のりをたどり、人々の哀感や歴史の伝承をとどめているところがあり、今日はそこを訪ねる。
城南宮では、出立ちの儀が披露されさながら、平安時代の一幕をかいま見ることができた。出立ちの前には精進を重ねて道中の無事を祈って旅立つ。特に白河上皇や鳥羽上皇は、ここ城南宮を精進の場所として選び、陰陽師の占いにより出発日を決めたそうだ。今日も城南宮では、その儀式が行われ見ることができた。
気温も9月中旬とは思えないほどぐんぐん上がる。熱中症にならないように水分を補給しながら歩く。![]()
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伏見稲荷の手前で鴨川を離れ鳥羽街道に入る。そして東福寺に境内を通り、今熊野観音寺を右手に見ながら、新熊野(いまくまの)神社にお参りし、スタンプを押印する。暑いので少し休憩。東山に沿って後白河天皇陵を右手に見ながら、新日吉(いまひえ)神宮につく。このあたりは京都の7条通あたりだ。横断歩道や車に注意しながら丸山公園に向かって歩く。蹴上のトンネルを通って南禅寺の境内に出て、哲学の道を通って熊野若王子神社を経て聖護院門跡に到着。ここでは、衣かつぎをかぶった女性がお出迎え、山伏の法話を聞いて熊野神社へ。
暑さと![]()
、体調不良によりヤヤバテ気味だった。![]()
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上の写真は城南宮で、出立ち式を済ませて出発する皇女と女官達
鴨川を北へウオーキング
東福寺の本堂。ここには天井に大きな龍の絵が描かれている
新熊野(いまくまの)神社本殿・後白河上皇は紀州熊野へ御幸され神霊を遷したのが始まりらしい。
新日吉(いまひえ)神宮・熊野那智ガイド会の皆さんの「那智参詣曼荼羅絵図」の説明があった。
町で見かけた舞妓さん
熊野若生寺(きまのにゃくおうじ)神社・後白河上皇が永観堂の守護神として勧進したのが始まり
聖護院門跡で法話をする山伏。ここでは女官達が三門で出迎えられた。
熊野古道の塩屋王子から切目王子へ歩いたときの記録です。
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8月は気温が高いため、熊野古道ウオーキングは休んでいた。久しぶりに再開だ。7月に最終地点となった塩屋王子近辺の駐車場でストレッチングをして、歩き始める。語り部さんは前回と同じ人だった。
国道42号線と平行にある熊野古道を南下する。塩屋郵便局を過ぎて、光専寺に立ち寄る。ここには新日本名木百選に登録されている「イブキ柏槙(ビャクシン)」の木が有名で、樹齢600年以上と言われていて、和歌山県指定文化財となっている。高さは14m根回りは地上1.5mで6mを越える巨木である。根の絡まり方が美しいと思った。
道標に沿って民家の中を通り、しばらく歩くと眺望が開け、太平洋の地平線と岬の緑色、空の入道雲の白さが美しい。5分ほど歩くと祓井戸観音寺と八十八石仏・徳本上人六字名碑に着く。国道を横切り海を見ながら歩く。遠くに御坊発電所が見える。ダラダラ道をしばらく行くと清姫の草履塚に着く。ここには昔、松があったそうだが今は枯れてしまい石碑だけが残っている。さらに海に沿って南下する。昼飯の場所に着く。「はし長」という活魚、干物、野菜などを売っている店の駐車場に、バスが来ていて、ここで弁当を受け取る。海の景色を見ながらべてもよいが、暑いのでバス内のクーラーの効いたところですませた。約四十分ほど休憩した後再び出発する。お首地蔵尊への道標を確認して秋近橋を渡り更に南下する。この一帯は、切り花を作っている農家が多くビニールハウスが沢山建っていた。和歌山高専の前を通って道標に従って仏井戸に行く。
この井戸は水換えの時に井戸の底から仏様が現れるところから、仏井戸と呼ばれているそうだ。語り部さんが写真を見せてくれて説明していた。500m程行くと今度は上野王子跡に到着する。この王子には何もなくて民家の間に王子跡の石碑があるだけだった。津梅橋の架け替え工事を行っていたので、遠巻きして清姫の腰掛け岩に向かう。この石に清姫が座ったときに安珍がしばらくそのまま、居させるように念じ、時間稼ぎをしたと言われている。そのため、安珍の座った跡は、石が深く削れたとされている。このあたりで午後2時頃となり、気温はぐんぐんと上がり汗びっしょりだ。熱中症にならないように水分を取りながら歩く。国道に合流歩道もなく車も多いので気をつけながら進む。そして叶王子跡に到着。印南町にはいると「鰹節の発祥の地」と大きな看板が出ていた。緩やかな上り坂を行き、斑鳩王子跡に。
木陰でしばしの休憩を取る。切目王子の道標を見ながら歩き切目王子に着く。ここ切目王子は五体王子の一つに数えられた別格社で社前には幹周り4mに及ぶホルトノキがあり、県下最大だそうだ。この王子は「太平記」にも描かれている古風なたたずまいの神社であった。
9月に入ったとはいえ残暑は厳しく、途中でばてる人もいたが何とか完走した。着物は汗でビショビショバスに戻り、風邪を引かないように着替えて帰宅。歩いた距離は約14kmでした。
上の写真は光専寺の樹齢600年のビャクシンンの木
御坊発電所
祓井戸観音
清姫の草履塚
仏井戸(隅の写真は語り部さんに見せて貰った写真)
清姫の腰掛け石
斑鳩王子跡
切目王子社
熊野古道紀伊路の紀伊内原から塩屋王子までへ歩いたときの記録です。
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6月5日に紀伊内原へ行ってから早、1ヶ月以上がたった。![]()
昨日までのお天気は雨が良く降っていた。天気予報では、今日は曇り後晴だ。![]()
(でも一抹の不安はある。それは妻が出かけることだ。
)集合場所に行きバスに乗り込む。泉佐野あたりから雨が「パラパラ」、和歌山に着く頃には結構降っている。![]()
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天気予報も今日は晴れると言っていたが・・・・ああああああ。だめだ。やっぱり・・・![]()
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連れの友人が言う。「早く携帯電話で奥さんを家に帰るように電話して」「電話を持っていないからだめ」「しょうがないなあ」湯浅に着く頃には空が明るくなった。「奥さんの霊験もここまでは届かないのかなあ、せいぜい生駒山止まりか。」と言って笑う。![]()
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そうしている内に、紀伊内原に到着する。語り部さんと合流。
JRきのくに線に沿って湯浅駅の方に少し後戻りして踏切を渡る。道しるべ地蔵、一里塚跡、大池を過ぎる頃地蔵菩薩道標に到着。説明を聞きながらしばらく歩くと善童子王子社への道との道標がある。この道標には、よい子神社と書かれていた。田舎道をしばらく行くと善童子王子跡に着き、お参りを済ませる。
この王子は安富神社の産土神で田藤次王子とも言う。道標に従って進むとビニールハウスの農業がある。ここには「特別農産物保護地区」の看板があった。ニガウリなどが栽培されていた。
竹藪の中の細い道進むと、愛徳山王子社跡につく。ここは市指定の文化財で、旧川上村の阿田水神社より勧請されたと伝えられている。
そして昼過ぎには、安珍清姫の伝説で有名な道成寺に到着。門前町にある食堂で昼食。生ビールで喉を潤す。グラスが変わっていた。寺では安珍清姫の絵解き物語を聞き、女性の執念深さに感心することしきり。
午後2時前に出発。蛇塚、かみなが姫の像を見ながら更に進む。気温はぐんぐん上がり、喉がからからになる。この頃から足の不調を訴える人が出てくる。蒸し暑さに疲れが出たのだろう。![]()
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そして海士王子跡に・・・ここは、九十九王子の一つで「くわま、クハマ、クリマ」等と呼ばれ熊野詣での小松原宿所を控え屋要所であったそうだ。お参りを済ませJR重力踏切を越えると湯川子安神社にたどり着く。![]()
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安産の神様、湯川子安神社ではお参りするも、安産に関係のある人は、添乗員だけなので、代表でお参りする。後は卒業した婦人方ばかり。ウーン。
野口新橋を渡り、日高川に沿って下流の方へ進む。御坊大橋を過ぎて岩内1号古墳へ、別名「みこ塚古墳」とも呼ばれいっぺんが13mの方墳で墳丘に沿って、北、東、西の3辺に周溝をめぐらし、全長約6mの横穴式石室を主体としている。昭和24年の調査により、漆塗木棺、銀千蛭巻太刀等多数が出土した。54年の調査では7世紀に作られた事が判明したそうだ。
緩やかな坂道を登ったり下ったり。かんかん照りの中を行く頃には、熱射病にならないか、心配だった。雨傘を出して日よけにしたり、水を補給しながら、やっとの思いで今日の最終王子の塩屋王子に到着。ここでは7月19日にお祭りがあり、今日が「宵宮の神事」が今からあるというので見学した。神主と巫女がお祓いをすませ、やがて神事が始まる。神妙に見学する。
最後の2.5km。力を振り絞って日高川にかかる天田橋を渡り、西御坊駅に向かう。小竹八幡宮にてストレッチング。本日の散策終了。本日の歩行距離は14.5kmでした。アア!疲れた。暑い中ご苦労様でした。・・・![]()
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上の写真は地蔵座像の道標
善童子王子跡
愛徳山王子跡
海士王子跡 道成寺演技にまつわる観音像を海中から拾い上げた海士を祀ったと言われている。
安珍清姫伝説で有名な「道成寺本堂」 平安時代の千手観音像や道成寺縁起絵巻など、数々の国宝や文化財を残す寺でもある。
岩内1号古墳
湯川王子社 境内には後鳥羽上皇在所碑が建ち、美しい天照大神の神像があることから別名を「美人王子」とも呼ばれている。
湯川王子社夏祭り「宵宮」神事を行う、神主と巫女さん
熊野古道の河瀬王子から紀伊内原へ歩いたときの記録です。
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昨日は朝から雲一つ無い良いお天気だった。![]()
河瀬王子まで車で行き、そこからウオーキング。到着後、準備ストレッチをすませていざ出発。すぐに延命地蔵(汗かき地蔵とも言われている)だ。中に地蔵尊が祀られているそうだが中は見えなかった。木像寄木造りで顔面に漆が流れているので汗かき地蔵ともいわれている。このお寺は鹿ガ瀬峠の登り口になっていて、峠を登る人が少し弱ると後ろから押して助けたので汗をかいたという言い伝えがある。
しばらく行くと、旅籠の名残があり、田に水を張っていた。猪苗代にはオタマジャクシがたくさん泳いでいた。都会では見れない風景だった。
道標を見ながら進むと、東の馬留王子跡にたどり着く。馬には険しすぎる峠を前に、その場に馬をつないでおいたことに由来すると言う。馬留王子跡は藤原定家等に日記には記載がないため、新しいものと考えられている。ここを過ぎる頃から坂道になり、道を横断するように柵があった。これは猪が里に下りてくるのを防止するためと書かれていた。古道の所どころに「鹿ガ瀬峠まで○○m」の標識があり、それを頼りに登っていく。途中に「立場跡」と書かれた看板があり駕籠はここまでまで、これより、牛馬の背に頼ることとなると書かれていた。急な登り坂のため何度も小休止を取りながら進む。縛られ地蔵(痔の地蔵)を通り、やがて大峠に到着。峠では涼しい風を受け、湯浅の町並みも間近に見えて景色が良かった。今回も月光仮面と同行したが、その隣には別の月光仮面もどきもいた。いくつになっても日焼けを気にしている女性であった。峠を出発して下りにさしかかる頃、馬頭観音があった。この観音様は木の根っこの中にあったものを掘り出して再度お祀りしたそうである。そして小峠に着く。ここでも小休止。やがて道は熊野古道で現存する最長の石畳の上を歩く。金魚茶屋跡の着く。この茶屋は江戸時代に清流で金魚を飼って旅人をもてなしたためにつけられた名前。ここで昼食をすませ、沓掛王子に向かう。そして原谷集落を通る。この集落は全国でも有数な黒竹の産地で釣り竿や装飾品に加工されて出荷している戸聞いた。ここで語り部さんの知り合いのお爺さんが黒竹を加工しているところ、見せてくれるというので見学させていただき、帰りには黒竹のお土産までいただいた。仲間の誰かがお金を払うというと、その爺さんは「ワシはまだ長生きしたいんや、ワシを殺すのなら金を払ってくれ」といって受け取らなかった。田舎の人の好意を受けて、皆喜んでいた。そして感動・・・・
四ツ石聖蹟地、西の馬留王子跡を経て、内の畑王子に。跡はだらだらの平坦な道を高家王子に参り、その後紀伊内原駅に行く。ここで飲んだ一杯のビールは本当に美味しかった。
上の写真は苗代のオタマジャクシ
熊野古道をいく
馬頭観音
黒竹を加工するおじさん
原谷の集落・遠くに黒竹林も見える
高家王子跡
熊野古道の紀伊宮原から河瀬王子へ歩いたときの記録です。
詳しくはこちらへ
昨日まで痛かった足にサポータをして出かける。JR紀伊宮原で、語り部の吉中さんと合流し、ストレッチ終了後出発。「札場地蔵」を右手に見ながら国道を渡り「天神社」を過ぎると、有田川にかかる宮原橋の手前に宮原の渡し場跡がある。江戸時代には、橋がなく舟で渡ったそうだ。その後、木の橋ができたが、これも流され今では立派なコンクリートの橋ができている。橋を渡り、左折。国道42号線に中将姫寺の大きな看板が目につく。少し行くと得生寺につく。ここで語り部さんから説明を受ける。当麻寺の中将姫ゆかりの寺で天平時代、伊藤春時に命を狙われたが、姫の徳に打たれ、殺害することができず、名を得生と改め姫を守ることとなった。これが得生寺の起こりである。5月14日には姫を偲ぶ「中将姫大会」が行われる。
万葉歌碑、一里塚を通り、糸我稲荷神社に向かう。稲荷神社は伏見が総本山だが、ここは、伏見より約60年に前に建立され、鳥居には本朝最初と記されていた。近くの歴史民族資料館にて休憩。そして、糸我王子を過ぎると、急な登りとなり、やがて竹藪に入る。この頃には、道はますます険しく七曲がりの登りだ。ふうふういいながら糸我峠にたどり着く。
ミカン畑はミカンの花がさき、いい香りが漂う。峠からは湯浅の町並みが一望でき、今までの苦しさが吹っ飛んでしまう。峠を越えると急な下りだ。途中「夜泣き松」伝説の場所に着くが、松はなくて竹林となっていた。更に下り「行者石」吉川憩いの家にて昼食。家から綾小路きみまろの漫談が聞こえる訪ねると老人会の集まりだった。
昼食後は「逆川王子」を訪ねる。逆川という名前は、近くを流れる吉川が海と逆の方向へ流れることから由来しているという。
方津戸峠を越え、湯浅の町に入る。この町は昔の面影はあまりないが、古道のイメージを残したいとの思いから何となく雰囲気がある町であった。金山寺味噌や醤油が有名な町である。紀伊国屋文左衛門の若いときの銅像なども建てられていた。JR を渡り勝楽寺にいく。
語り部さんは「本堂には多くの仏像があり、木造阿弥陀如来座像をはじめ、木造薬師如来座像、木造四天王立像や、鎌倉時代の木造釈迦如来座像、木造地蔵菩薩座像はいずれも国の重要文化財に指定されている。」との説明があったが、見せてくれないとも言っていた。紀州商人、紀伊国屋文左衛門の位牌が安置され、巨大な紀文碑が立ち、商売繁盛にあやかる参拝者も多いといわれているそうだ。
久米崎王子を過ぎる頃に国道と別れ旧道にはいる。平坦な道だ。古い道標の説明を聞きながら広川を渡る。高速道路をくぐり抜けて津兼王子に到着。井関王子は高速道路の建設により無くなってしまったそうだ。この集落では、お年寄りを見かけたので、声をかけた。老人会の催しが終わって帰宅の途中だった。昔、このあたりは、旅籠が沢山あり、今もその跡地の看板が出ていた。町外れに、伏見稲荷大社中紀奉拝所があり、赤い鳥居が急な斜面に沢山建てられていた。よく目立つ建物だ。河瀬(ごうせ)橋を渡り河瀬王子に到着。心地よい汗をかき着替えをすませ帰路につく。足も余り痛くなかった。![]()
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上の写真は「得生寺」
糸我王子
峠に向かう山道
糸我峠のミカン畑から見る湯浅の町。ミカンの花の香りが漂う
伏見稲荷中紀奉拝所
河瀬王子
熊野古道の藤白神社から紀伊宮原へ歩いたときの記録です。
詳しくはこちらへ
食事を済ませ藤白坂を後にして道幅の狭い、つづれ折れの下り坂を下りていく。あたりはミカン畑。花の咲く頃は良い香りがするだろう。降りきったところに、「橘本王子」がある。ここは紀州ミカン発祥の地ともいわれ、境内には橘の木があった。又ここはお菓子の神社として全国からのお参りが多く、神前には多数のお菓子が奉納されていた。市坪川に沿って平坦な道を行く。左手に児童会館、右手に小学校を見ながらしばらく歩く。一壺王子社に到着。境内には土俵があり、泣き相撲が行われTVなどで放映さたそうだ。
拝ノ峠までは沓掛の登り口から民家の間の急な坂道を行く。途中、沓掛児童会館で休憩。桜が美しい。沓掛の松、弘法井戸、爪書地蔵の説明を聞く。地蔵を覗いてみるが爪跡らしい傷は見えなかった。休憩を終え再度急な坂道を登る。峠をはいつくばるようにして登ったところから拝ノ峠と呼ばれるようになったそうだ。
頂上に着くと小休止、水分補給だ。右手に万葉歌碑を見ながら今度は下りだ。石碑、石標を見ながら下っていくやがて蕪坂塔下王子に到着。ここには無料のトイレがあり、小休止。「太刀の宮」を経て爪書地蔵に至る。沓掛児童館にあったものとは違い、独立してお堂があった。爪書地蔵は奥の方にあり余り見えなかった。
長いだらだらの下り坂を下りて山口王子に着く。近くには伏原の墓もあった。この墓は、昔、熊野詣での時に行き倒れになった人々の墓でそれらをあつめて弔っているようだ。町の中の平坦な道を駅に向かって歩く。「熊野古道ふれあい広場」にて最後の休憩をして紀伊宮原の駅に向かった。
写真は橘本王子
一壺王子
拝ノ峠の登り道
爪書地蔵
山口王子
JR海南から約1kmにある藤代神社を出発点に今回の熊野古道ウオーキングが始まるので参加した。
藤代神社では、今回の企画が成功しますように!。道中が安全でありますように!との安全祈願のお祓いを受け、一人ずつにお札をいただく。そして、藤代権現本堂にて宮司の話を聞く。
権現とは神仏混淆の時代に本来仏である本地仏が権(カリ)に神の姿で現れているという信仰で、神仏一体で祀られている日本古来の信仰であったが、廃仏毀釈により現在にいたっているそうだ。藤代神社には、熊野詣でが盛んな平安時代に建立された仏像が現存していた。熊野本宮の「阿弥陀如来座像」熊野速玉の「薬師如来座像」那智大社の「千手観音座像」が祀られ、和歌山県の指定文化財となっている。熊野の入口を護る「毘沙門天」と「不動三尊」も祀っていた。
ここの境内の桜は満開であった桜の下ではお花見の宴会が盛り上がっていた。
ここで語り部さんと合流。ストレッチをしてから11時頃出発。途中、民家の軒下には熊野古道の提灯がつり下げられていた。しばらくは町の中を行く。有間皇子の墓に到着。有間王子は孝徳天皇の王子で658年11月謀反の疑いでとらえられ西牟婁の湯(現在の白浜の湯崎温泉)に行幸中の天皇の元へ護送され、帰り道にこの藤代坂で絞殺されたそうだ。墓所もあった。その傍らに丁石地蔵があった。この地蔵は全部で17体有り、1丁(約109m)毎に安置されている。1丁地蔵は享保のはじめの時代のもので珍しいそうだ。
右手に果樹園の段々畑を見ながらつづらおれの急な階段道を歩く。しばらくすると竹藪の中弐はいる。道は相変わらず急な坂道であった。途中「筆捨松」と「硯石」の場所で休憩。ここには「投げ松」と「筆捨て松」の伝説がある。「筆捨て松の伝説にちなみ、徳川頼宣公の命により、自然の石に硯を彫らせた」と説明を受けた。更に林の中の急な坂をどんどん登って行く。足元は苔の生えた滑りやすい石の階段、注意しながら登る。やがて石造宝筺印塔に到着。
ここで語り部さんの説明を聞く。それによると地蔵峰寺の境内にあり、寺の施設として建立。時期ははっきりしないが、15世紀全般と推定されているそうだ。宝筺印塔とは「宝筺印陀羅尼経」というお経を納める塔だそうだ。
地蔵峰寺を見学、御所の芝(熊野路第一の景色の良いところ)へ行くが、あいにくの黄砂でかすんでおり、景色は良くなかった。再び地蔵峰寺にある「塔下王子」に戻り、昼食。
写真は藤代神社
お祓いを受ける
山道を行く人達
石造宝筺印塔
塔下王子
熊野古道の発心門王子から熊野本宮大社へ歩いたときの記録です。
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熊野古道の小広王子から発心門王子へ歩いたときの記録です。
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ホテルを8時に出発。
熊野三山の一つ熊野那智大社に向かう。ここは西国詣での一番札所の青岸渡寺もあり、那智の御滝、三重の塔などがある。昨日の疲れはまだ残っている。四百数十段の階段を上って参詣する。二十四階建てのビルの階段を上がるようなもので足がなかなかあがらない。やっとの思いでたどり着く。![]()
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お参りを済ませ、御滝の近くまで行く。それから熊野速玉大社へお参りし、昨日の最終地点の発心門王子跡に向かう。 熊野川、と中津川を遡る。「大ヒット水森かおり ようこそ熊野古道へ」と言う文字を石ころで作ったのか、川原にあった。途中に熊野本宮の旧鳥居も見える。12時に発心門王子に到着。発心門は熊野本宮の入口に立てられた鳥居で菩提心を発す門といういわれがあるそうだ。
平安時代末期の「忠右記」によると参詣人は発心門でお祓いをし厳粛な心で大鳥居をくぐって王子に奉幣したそうだ。 発心門王子を出発して、笹百合の自生地の看板の所を右に曲がり進む。登り坂を約30分程、進むと水呑王子跡につくここで水を飲んで里道を進む。伏拝王子を過ぎて緩やかな下りとなり、NHK連続ドラマの「ほんまもんや」ロケ地や、三軒茶屋跡を見る。坂道も下ったり登ったり、結構疲れもたまった。熊野本宮大社の手前には祓所王子があり本来はここでお祓いをして大社に入ったそうだ。
今日は裏の方からはいる。語り部さんが「ここからは私についてきてください。」というと鳥居をくぐらずに鳥居の横を通る。初めは理解できなかったが、しばらくして意味が判った。
鳥居は新しくできたもので、古道ではなかったのである。本宮大社では宮司さんの話を聞き、お参りを済ませ帰途につく。大社の表にも祓所大神にお参りしてから本宮向かうようにとの看板もあった。古道は急な石段の下りが100mくらい続く。足はガクガク。前になかなか進まない。最後の力を振り絞ってやっとの思いで駐車場についた。![]()
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紀伊路の三鍋王子から始まり中辺路をとおって、やっとの思いで本宮にたどり着いた。歩いた距離は79.2kmだった。
平安時代の人たちがどんな思いで参詣したのか、一部が理解できたように思うのであった。終わってみれば、よく歩いたなあ〜と言う感じと、よくも続いたなあと言う充実感で、一杯だった。紀伊路の海南からにも挑戦したいものだ。![]()
写真は熊野那智大社
那智大社三重の塔と御滝
熊野速玉大社
熊野本宮大社入口
小広王子にて昼食をすませる。弁当は例によって、ウオーキング前のストレッチを行い、いよいよ出発だ。緩やかな坂道を行くと小広休憩所にでる。トイレをすませ、熊瀬川王子跡に向かう。一里塚(和歌山から28里)で小休止。わらじ峠まではつづら折れの急な上り坂が続く。やがて峠にたどり着く。この草鞋峠は(標高592m)江戸時代、西側の坂は、熊瀬坂、東側の坂は女坂ともよばれ、この付近の山道は、蛭降峠百八丁と言われ、山びるに悩まされた所だといわれていたそうだ。
草鞋峠を過ぎると今度は急な下り坂で、ここは女坂といわれつづら折れの急な下り坂となる。階段の下りは足にこたえた。
友人が「下り坂 足は笑って 顔いがむ」私は「女坂 くだってくだり 足笑う」と川柳を作った。
冗談を言う余裕がまだあり、仲人茶屋に到着。ここは草鞋峠と岩神峠を結ぶ谷間の茶屋で傍を流れる川は、栃の川である。付近に栃の大木が多かったそうである。
西の草鞋峠の坂を女坂、東の岩神峠の坂を男坂と言い、その中間の茶屋をいつしか仲人茶屋と名付けたようである。
男坂の急な坂道を登ったところに岩神王子跡があった。道標に従って今度は急な坂道を降りると谷川に出る。川に沿って進むとおぎん地蔵にたどり着く。おぎん地蔵は、京都の芸者のおぎんがこの場所で、追いはぎに襲われ命を落とした。それを哀れんで土地の人が地蔵を建てたそうである。これがおぎん地蔵である。
更に進むと蛇形地蔵につく。昔、岩神峠にあったが熊野詣での人々が遭難するため地蔵を建てて遭難を防いだといわれている。
湯川王子跡を過ぎて、急な登り坂を上り、三越峠を越えて階段の急な下り坂が続く。このあたりから足の笑いが止まらない。少し林道を通るが、再び急な石段を下る。みんな無口になる。疲れはピークに達する。船玉神社、猪鼻王子跡を経て最後の上り坂を越えると発心門王子圧にたどり着き、今夜の宿泊場所、勝浦に向かう。アアしんどかった。![]()
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女坂の急な下りの石段
おぎん地蔵
蛇形地蔵
熊野古道の牛馬童子から小広王子へ歩いたときの記録です。
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今日の熊野古道散策は、牛馬童子口からの出発だ。急な登り道を登っていく。左側の山の上には大正か、昭和の初めに建設されたと言われている水道橋が見える。昔は竹か木で作っていたそうだが近年になって鉄製のものになったらしい。茶屋跡を左にして、一里塚に到着。ここの一里塚跡は和歌山から26里と書いてあった。やがて語り部さんが牛馬童子像のいわれを説明してくれる。
牛馬童子は、箸折峠にある宝篋印塔(県指定文化財「近露の宝塔」)の裏手にあり、平安時代の花山法皇の旅姿を偲んで彫られた石仏(明治時代に制作)である。この牛馬童子の石仏は高さ50cmと小さくてかわいらしく、今では中辺路のシンボル的存在となっている。語り部さんの話によるとこの像は砂岩で出来ており、自然の雨風にどれだけ耐えられるか?と言っていた。社を作ってはどうかという意見もあった 。
石畳の滑りやすい坂道を下る。道ばたには蔓リンドウの花がふくらみかけていた。やがて近露の集落を見渡せる休憩所に到着し、小休止。更に坂を下り、近露王子跡に。近野の集落の中を歩く。道端には、バイカオーレンやコゼリバオーレンなどこのあたりでは、春一番の始めに咲く花だ。なかへち美術館、伝馬所跡、近野小学校などを通って楠山の登り口にさしかかる。急な坂道をフウフウ息を切らしながら登っていく。楠山中地蔵を見て、登り切ったところに、月待供養塔があった。比曽原王子跡を通過して、野中の清水と一方杉を見に行く。
野中の清水は、旧国道311号沿いに湧き出る清水で、熊野詣の人々の喉を潤したという名水。日本名水百選のひとつに選定されている。現在も地元の人たちの貴重な飲料水・生活用水として使われている湧水である。ここでペットボトルに一杯持ち帰ることにした。傍らには、松尾芭蕉の門人、服部嵐雪(はっとりらんせつ)の、「すみかねて道まで出るか山清水」の句碑があった。
また、斎藤茂吉の、「いにしえのすめらみかども中辺路を越えたまひたりのこる真清水」の歌碑もあった。そして、継桜王子境内に杉の樹齢800年の巨木があり、南向きだけに枝を伸ばしていることから「野中の一方杉」と呼ばれて居る杉を見に行く。10本近くあるうち、最大のものは大人が6人で手をつないではかったら、幹の周りがおよそ8mもあった。みな同じように、南にある熊野那智大社を慕うように枝を伸ばしているので、一方杉と呼ばれているわけだ。この不思議な現象は、生物の生態を知る上でも貴重なものと言われている。
野中の一方杉から50mほど進んだところに、茅葺き屋根の「とがの木茶屋」がある。熊野古道を訪れる人たちに、熊野の郷土料理を提供しているお店で、築250年を越える建物は、江戸時代から、熊野詣の旅人を泊めていた宿場だ。ひな祭りの七段飾りを出していて旅人の心をいやしてくれた。
秀衡桜と安部清明の止め石を跡に中川王子跡に到着。ここからはひたすら、だらだら道を小広王子まで約2kmを歩く。ここでバスに乗り込んで今回の散策は終了する。
高原霧の里で弁当をすませて少し休憩。ここは棚田が美しい場所だ。水車小屋もあり景色がよい。語り部さんの山○内さんを紹介される。ストレッチをして12時5分出発。前回は藤原秀衡が観音様の掌のような参詣道だと語ったと言われるほど険しい道であった。今回は語り部さんの話によるとそれほどでもないらしい。昨夜は大雨で今日は足元が少し悪い。「特に下りに注意されたし。」のアドバイスがあった。 旧旅籠通りは石畳で大変滑りやすい。気をつけながら歩む。庚申さんを過ぎる頃から山道に変わる。落ち葉が昨日の雨で茂っている。もっさんが「おとむさんとおなじ葉が落ちているよ。」と言う。「なんで」と聞くと「濡れ落ち葉の事を言っているのだ。」というので大笑い。坂道は結構きつい。一里塚あたりで少し休憩。
ここを過ぎると少し平坦な道になり、道標10を過ぎる頃から再び登りだ。高原池に到着。ここは人工池だそうだが、森林の中の池なので幽そうとしていて気持ちがよい。階段の登り坂をあがると大門王子につく。山道もどんどん狭くなり、片側が崖になっており注意しながら歩く。やがて小判地蔵に到着。飢えと疲労で小判をくわえたまま倒れた巡礼者を弔って作られた大分県の住人だったと語り部さんが話す。そして、悪四郎屋敷跡に到着。十丈の悪四郎は伝説上の人物で力が強く、頓智にたけていたと言われる。悪四郎の悪は勇猛で強いと言う意味だそうだ。
坂を下ったり登ったりしながら上田和茶屋跡に到着。息が切れそうな、急な坂道を下り三体月鑑賞地を通過。昨日の雨で滑りやすい、下り坂を何度か転びそうになりながら大坂本王子に着く。逢坂峠の麓にあるところからこの名がついたそうだ。更に下り、牛馬童子口に到着。本日の行程は約8kmの山道だった。途中では暑くなりセーターを脱いだり、休憩すると寒くてあわててヤッケを着たり、でも心地よい疲れに満足だった。添乗員のキムタクあねき、山○内語り部さん、ありがとさん。![]()
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写真は高原霧の里の水車
山道を歩く
熊野古道の清姫の墓から高原熊野神社へ歩いたときの記録です。
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前回行く予定であった滝尻王子は夜遅くなったため、今日は清姫の墓からの出発になった。富田川に沿って滝尻バス停まで311号線沿いに歩く。しばらく行くと音響鳥居が見える。ここからが熊野の御山入口となる。30分位歩いて橋を渡ると、熊野古道館到着する。ここではいつものように「前田のおばあちゃん」のお弁当を頂く。外気温度は9度で肌寒い。味噌汁とミカンをサービスされる。弁当は本当に美味しかった。食事を済ませ館内を見学する。第2回に同行させていただいた、館長さんに再会した。挨拶をすませ前田のおばちゃんにお礼を言って、近くにある滝尻王子を訪ねる。ここからが熊野の聖域に入る。いよいよ、いにしえの古道の始まりだ。入口には竹の杖が用意されている。スティックを使い、急な階段の道をあがっていくと、藤原秀衡が熊野参詣の時、婦人が急に産気づきここで出産したと伝えられている。子供は岩からしたたり落ちる乳を飲み狼に育てられたという伝説がある。「乳岩」と「胎内くぐり」の名所があり、中を覗く。さらに足下の悪い、急な坂道を登っていくと、不寝王子に到着する。しばらく行くと、番号のついている熊野古道の道標がある。これはここから熊野本宮まで500m毎に75本が整備されている。「フウフウフウ」あごを出しながら、500m程登ると剣ノ山経塚跡がある。ここから熊野本宮に向けて九つの門があり、最初の「下品下生の門」があったと伝えられている。ここからは少し下り坂。今まで急な坂道を登っていたのに下るのは、もったいない気もしたが道がないのでやむを得ない。ヤッホーポイント、ホラ貝ポイント、展望台で少し休憩。階段の下り坂、石畳の下り坂を下り林道を渡って道標に沿って歩く。「堂の経跡」「針地蔵尊」につき休憩。針地蔵尊は歯痛を直す御利益があるとの言い伝えがあるそうだ。おとむさんも今、歯が痛いので祈る。さらに急な上り坂を行く。NHK のアンテナの塔が立っている。ここから下り坂だ。右手に珍しい形の民家が数件ある。遠くに、イーデスハンソンさんの家も見える。語り部さんの話によると、国道からこのあたりまでは15分位登ったところだそうだ。民家の中を通り、「高原熊野神社」に到着する。この行程は距離は短いが、急な上り坂の連続で可成りきつかった。![]()
写真は世界遺産熊野古道の中辺路の出発点滝尻王子
音響鳥居
熊野古道の稲葉根王子から清姫の墓へ歩いたときの記録です。
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朝から土砂降りの雨。天気予報では和歌山方面は午後から晴れるとのこと。期待して出かける。添乗員は木村ひろみさん(自称キムタクアネキだそうだ。)稲葉根王子から滝尻王子までの予定であったが日没時間が早くなっているので計画を清姫の墓に変更。ツアーは17名である。いつものメンバーも数名来ている。「また、お会いしましたね。よろしく。」お互いに声をかける。今日も一日、怪我の無いように頑張ろうと思う。
稲葉根王子の駐車場。車の中で昼食。弁当は「前田のおばあちゃんの弁当」中身は、目張り寿司、サンマの押し寿司、おにぎりに煮物と鮎の煮付けだった。美味しく頂きいよいよ出発。稲葉根王子でウイ語り部さんと合流、第1回目の時と同じ語り部さんだ。「今回もよろしく」と挨拶する。雨はまだ止まないが、ずいぶんと小雨になってきた。気持ちは少し暗い。![]()
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富田川の右岸に沿って歩き始める。市ノ瀬橋を渡りあぜ道を進むと一ノ瀬王子に到着。写真は一ノ瀬王子。ここは1202年藤原定家は徒歩で、岩田川、現在の富田川を渡り一ノ瀬王子に参拝したと言われており当時は川を最初に渡ったところが一ノ瀬だと言われている。この辺まで来たときにはすっかり晴れて雨上がりの景色が一段と美しかった。![]()
加茂橋を渡るとき中州に4,5人の人影が見える。語り部さんによると「かかし」だそうでこの川には鮎がたくさんおり、それを狙いにくる青サギなど追い払うために設置しているそうだ。近くに青サギが獲物を狙いに来ていた。もう慣れてしまったのか。人と鳥の知恵比べ。平賀三郎の墓を経て、鮎川王子に到着。鮎川は合川(あいわか)すなわち川が合流するところという意味から来てる。1210年に熊野詣での藤原頼資は、暴風雨に合い、ここ鮎川王子にたどり着いたそうだ。明治時代に住吉神社に合祀され、今では石碑が建つのみである。住吉神社を経てやや急な上り坂を行きやがて山道に入る。
庚申塚を通る頃、急な坂道となり、北郡の吊り橋が見える。橋を渡ってしばらく行くと清姫の墓に到達した。
住吉神社でウイさんが拍手の仕方を指導 柏手1回(???忘れた)。2回神様(略式)。3回仲居さんを呼ぶ。4回正式な神様。出雲大社、宇佐神宮、伊勢神宮、弥彦神社「天地陰陽」(と言っていたが「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」と言う説もある。)5回は上手な人に送る。と言って笑わせた。
熊野古道の紀伊田辺から稲葉根王子へ歩いたときの記録です。
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前回高山寺まで歩いたので、ここ、高山寺にて語り部さんと合流。人数も前回の25名から11名に半減していた。自己紹介があり、ストレッチをして歩き始める。北東の方向へ2.8km歩く途中、弁慶の湯を経由して、秋津王子安井宮跡に到着。「何処にお宮があるの。?」語り部さんは「お社はありません。宮跡です。」と言う。ここの創祀時期は不明だが1201年ぐらいだと説明があったが、跡地に石碑が建っているだけなのであまり感動が沸かない。会津小学校の横をとおり、少し石段を登ると境内です。須佐神社には、これから向かう万呂王子が合祀されてる。ここで前田おばあちゃんの弁当を受け取り、昼食タイムとなる。食事がすむと宮司さんのお祓いを受け、御神酒を頂く。この神社は33代続いているそうだ。男性の祭り(奇祭)が11月にあるそうだ。
食事を済ませ、会津川に沿って南東にしばらく行くと梅畑のなかに万呂王子跡がある。
田辺市の地図には、万呂王子と書かれているが、お社などはなく跡地の看板だけだった。がっがり・・・(世界遺産登録であわてて作ったのだろうか。)三栖廃寺塔跡を出発、やがて山道に入る。うっそうとした林の中を歩くとマイナスイオンが降り注ぎ気持ちよく感じる。左会津川をわたり、報恩寺の山側の道をのぼると「三栖王子跡」の碑があり、ここからは見晴らしが良い。社殿は水害で崩壊したらしい。新岡坂トンネルを遠巻きして八上王子に到着神社の前で、梅干し、柿、栗、ミカンなどが安く売られていた。しばらく町中を通り岡川橋を渡ると田中神社にたどり着く。ここの岡藤は南方熊楠によって「オカフジ」と命名され、古い藤の木があった。稲葉根トンネルを高巻きし稲葉根王子に到着。近くには水垢離場跡の石碑や坂本冬美の記念植樹等があった。本日初めてお社らしい神社に出会う。
総じて今回のコースは王子跡ばかりで、何かしら後から造られたような気がした。次回に期待したい。
熊野古道の三鍋王子から紀伊田辺へ歩いたときの記録です。
今回、紀伊路(海辺のコース)から中辺路(山のコース)をとおって、熊野本宮大社に行くコースを計画。7回に分けて友人と行くことにした。第1回目は、日本一の梅の産地南部から南下し、紀伊田辺を目指す。三鍋王子にて語り部の人たちと合流する。本日の行程は南部→鹿島神社→芳養王子→牛の鼻→田辺市民球場→目良漁港→天神崎→潮垢離浜記念碑→出立王子→高山寺のコースで南部から約12kmである。南部を11時頃出発して南部の町の中を歩く。南部は梅の産地で日本一と言われるだけあって、この時期でも大きく柔らかそうな梅干しを干している。鹿島神社を経て芳養王子を過ぎ、市民球場で昼食休憩。![]()
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昼食は先日テレビで放送していた「前田ばあちゃんの手作り弁当」(めはりずし、サンマの押し寿司、麦の入ったおにぎり、こんにゃく、スカンポの煮付け、めざし竹の皮包み)であった。歩いた後であったので非常においしかった。![]()
休憩後、目良漁港に到着。島と島の間に鳥居があった。海の美しい景色だ。潮垢離浜記念碑で休憩。
天神崎を経由して出立王子に到着する頃には暑さでばてばて。会津川に沿って高山寺に行く。山門から急な階段が続き、息が切れる。「南方熊楠や植芝盛平」を見て高山寺の境内にたどり着く。ここは、真言宗の寺であり、高山寺貝塚が有る。貝や動物の骨などが出土したそうだ。また多宝塔に中段の手摺りには、擬宝珠があり、これも国内では珍しいらしい。
王子社とは神様の子供という意味や古代から中世にかけて道中の休憩のために設けられた神社など諸説有り、このルートには99の王子社があると言われているが99カ所という意味ではなく、王子社が多いと意味だそうだ。![]()
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上の写真は三鍋王子
芳養王子
出立王子
熊野古道ルート